謙遜1(ソートニッツアより)

 師父ドロフェイは、罪との戦いにおける我々の救いにとって何よりもまず我々には謙遜が必要だと言っている。「我遜れり、かくして主は我を救い給えり(聖詠)」  我等の救主ご自身が、私たちが温柔であるのをご覧になりたい願い、全ての人々を教えさとしている。「わたしは柔和で謙遜な者だから、私に学びなさい。」(マトフェイ十一章二十九節)  ハリストスの謙遜について語りながら、克肖者イシヒイは書いている。『「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(マトフェイ十八章四節)「高ぶる者は低くされる」(ルカ十八章十四節)私から学びなさいと言っている。何を学ぶかお分かりだろうか。謙遜である。「父の命令は永遠の命である」(イオアン十二章五十節)。この戒めとは謙遜のことである。つまり謙遜でないものは、命から落ちたのである。』  福たる謙遜が欲望を殺す者と言われているのは理にかなっている。何故なら克肖者・階梯者イオアンの言葉によれば「この善行(謙遜)を身に付けたものは、すべての欲望に打ち勝ったからである。」ある長老は、我々の生涯は謙遜を得るための戦いだと言った。何故なら完全に傲慢から免れることが必要だからだ。つまり師父ドロフェイが言っているように「自分の兄弟を自分より頭がよく、全てのことにおいて自分より優れている者とみなし、自分の偉業を神に帰すために、自分がすべての人より下であるとみなすように学ばなければならないからだ。」  すべての聖人は自分のことを大罪人とみなしていた。彼らが完全なる謙遜を有していたにも関わらず、である。つまり彼等は全ての善なる行いと善行を神に帰し、一方自分を全ての人よりも劣るものとみなし、シナイの克肖者グリゴリイが語っているように、自分をあらゆる家畜よりも、被造物よりも劣り、悪魔よりも卑しいものとみなした。何故なら自分たちは悪魔の奴隷になっているからである。このような謙遜をハリストスの使徒たちも抱いていた。福たる使徒パワェルは深い謙遜から叫んでいる。「ハリストス・イイススは罪人を救うために世に来た、われそのうちの第一なり」(第一ティモフェイ一章十五節)  貞潔と秩序を伴った謙遜について克肖者シリアのイサアクは的を得た言葉を述べている。彼はこう教えている。「神への畏れからの謙遜もあれば、神への愛からのものもある。また喜びからくる謙遜もある。神の畏れから謙遜になったものにはいかなる時もすべての器官における慎み深さ、感覚の秩序正しさ、砕けた心を伴っている。謙遜なる者たちの集まりは天使セラフィムの集会のように神に愛されている。貞潔なる体は、清らかな捧げもののように神の前に尊い。この二つの善行、謙遜と貞潔は魂の中に至聖三者のための聘質を用意する。 謙遜な者は克肖者シナイのグリゴリイによれば「彼を誘惑に陥れたものに恨みを抱くことなく、彼等に感謝の意を表し、あたかも恩を施す者に対するがごとく、彼等のために祈る。」このために彼は自分の罪の赦しと神の祝福を受けるのである。  「真に謙遜なものは義とされなくとも困惑することなく、義とされなかったことについて自分を守るために何かを言うことなく、中傷を真実のように受け止め、自分が中傷されたと人々を説得しようとせず、赦しを求める。」(克肖者シナイのイサアク)  このような謙遜は福たるディアドフの教えによれば、恩寵によってのみ可能である。初心者が自分について謙遜な思いを抱くのは「肉体的な弱さや、義なる生活に熱心なものに敵する人たちからのいやがらせや、悪い考えによって」である。  師父たちは真の謙遜と偽りの謙遜と区別する必要があると教えている。何故なら克肖者新神学者シメオンが語っているように「怠慢や良心の強い呵責から生じる偽りの謙遜というものがあるからだ。この謙遜を持っている者はしばしばそれを救いの原因だと思うが、これは本物の謙遜ではない。何故なら謙遜と結びつくはずの喜びを引き起こす涙がないからである。」  克肖者ニキータ・スティファトはこの偽りの、滅びを招く謙遜の誤りをあらわにし、神の喜ばれる謙遜を指示して書いている。「謙遜は、多くの人がこの善行の本質と考えているような首を傾げることや髪を下ろすことや だらしのない、粗雑で粗末な衣服に有るのではなく、心の嘆きと霊(神―しん・ドッフ)の謙遜さにある。これは聖ダヴィドが言っていることである。「謙遜なる霊(神―しん・ドッフ)、砕かれた謙遜なる心を神は軽んじ給わず」(第五十聖詠十九節)  神に喜ばれる謙遜は偉大なる努力と苦行によって得られる。このことについてシナイの克肖者グリゴリイが詳しく教え、七つの様々な行いと心持がクリスチャンを心と霊(神―しん・ドッフ)の真の謙遜へと導くと言っている。沈黙を愛し、自分についての謙遜なる考えをもつたなければならない。」  この砕けた心の状態で魂は自分を全ての人々より劣り、下位のものと感じる。これは摂理的な謙遜と呼ばれる。一方この状態は神の憐れみをひきつけ、この時クリスチャンについに全ての善行の力および完成と呼ばれる完全なる謙遜が与えられる。この謙遜は善き行いを全て神に帰すのである。  この神から与えられる謙遜を得る為には智、心、意思の偉大なる警醒が必要である。   

人生の道のり



歩み続けた 我が人生
突然の壁にぶちあって

もう先は無いのかと思いめぐらし
あの世に移ることすら考えた

「主よ御心なら我が命を
すみやかに天国へ移し給え」

「だがお前の命はまだ尽きていない
お前の人生は人々のため

残された命を十分に使って
人々と神に奉仕せよ」と

困難の向こうに道がのびている
試練の時も希望を胸に抱いて

困難の向こうに道がのびている
希望の光は闇をも照らし出す

困難の向こうに道がのびている
また歩みだす我が人生の道のりを

幸福

 幸福への最も確かな道は、幸福になろうと望むことではなく、他人を幸福にしようとすることだ。 F.P.ガアズ博士  自分のために幸福を追い求める者からは幸福は逃げていく。  他人のために幸福を求める者は、完全なる喜びとともにそれを見出すだろう。

人を裁く罪について(後編)

人間の全ての罪を明確に見ていた聖なる師父たちは人間の陥罪にたいして私たちより寛容に接していました。あるとき克肖者(修道士の聖人)大ピメンのもとに兄弟たちがきて問いました。
「兄弟が罪を犯しているのをみたら黙って彼の罪を覆うべきでしょうか」
「そうするべきです」と聖なる神父は答えました。
「もし兄弟の罪を覆えば、神もあなたの罪を覆うでしょう」
 ある修道士が克肖者ピメンに言いました。
「私は一人の兄弟についてよくないことを聞いています。彼の生活は私を惑わすので修道院から出たいのです」
克肖者ピメンは問いただしました。
「あなたがその兄弟について聞いたことは本当ですか」
「はい、本当です。というのも信頼できる人からこのことを聞いたのです。」
すると克肖者は異議を唱えました。
「いいえ、彼は信頼できる人物ではありません。もし彼が信頼できる人物なら、けっして兄弟のことをあなたに悪く言わないでしょう。あなたは自分で見なかったことを信じてはいけません。もし自分で見たとしてもすぐには信じてはいけません」
修道士は克肖者に問いました。
「もし罪を犯している兄弟を見て、罪を指摘しなかったらあなたは神になんと答えますか」
「わたしならこう答えるでしょう。主よ、あなたはまず自分の目から丸太を取り除き、後に兄弟の目からおがくずを除くように命じられました。私はあなたの命を守りました、と」
そして克肖者ピメンは自分自身の例でこのことを証明したのです。
 彼のもとに修道士たちがきて、ある兄弟の修室に女性がいると言いました。克肖者は信じませんでした。そこで彼を修室につれてきました。そこに入ると克肖者は兄弟が女性を空の桶の下に隠していると察したのです。彼は近づいて桶の上に座り、兄弟たちに修室の中をくまなく探すように命じました。彼等が誰をも見つけられなかったとき、克肖者は厳しく叱責して彼等を追い出し、穏やかに愛を持って修室の主に言いました。
「兄弟よ、自分の霊に気を配りなさい」
罪を犯した兄弟は嘆いて克肖者の足下にひざまずき、その後最も模範的な修道士となりました。
 私たちに伝わっている克肖者パフヌティイの話があります。旅行中彼は道に迷い、ある村の近くに来ました。そこで彼は下品な話をしている何人かの人と会いました。克肖者は立ち止まって自分自身の罪のために祈り始めました。すると彼に主の天使が炎の剣をもって現れ、言いました。
「パフヌティイよ、自分の兄弟を裁くものはみな私の剣によって滅びるのです。しかしあなたは兄弟たちを裁かず、自分に罪があるように神の前でへりくだりました。それゆえあなたの名は命の書に書きとめられるでしょう」
 親愛なる兄弟姉妹のみなさん、主ご自身がわたしたちの弱さに寛容を示し、私たちの罪を覆ってくださっています。福音書に書かれていることを思い出してください。ファリセイ(ファリサイ人―当時のユダヤ教の偽善教師)がハリストス(キリスト)のもとに姦淫をおこなっているときにつかまった女性を連れてきて、主にこの女性に対する宣告を要求しました。主は彼等に言いました。
「あなた方のうちで罪のないものが最初に彼女に石を投げなさい」
女性は殴られも裁かれもしませんでした。というのも良心をとがめられたファリセイは急ぎ隠れてしまったからです。
 他人にたいして寛容で憐れみ深くあることで、神は私たちの罪にたいして寛容で憐れみ深くおられるのです。伝えられているところでは、あるとき不注意で怠慢に生活していた一人の修道士が死ぬところでした。彼の最後に兄弟たちが全て集まりました。驚いたことには、修道士は大変静かに死を向かえ、幸福な笑みさえうかべていたのです。兄弟たちはなぜ生前怠慢だった彼がそんなに楽に死を迎えているのか説明してくれるように頼みました。修道士は少し起き上がって答えました。
「父及び兄弟よ、私は確かに怠慢に不注意に生活してきましたから神の厳しい審判を恐れていました。しかし私に天使が現れて言うのです。『主は私をあなたに次のことをつげるように遣わしました。あなたは怠慢に生活していましたが、悪意がなく、生きている間誰をも裁きませんでした。このためにあなたの全ての罪は赦されています』そして天使はわたしの全ての罪の書付を破ったのです。ですからこんなに静かに死を迎えているのです」     このように語ると修道士はやすらかに霊(たましい)を神に託しました。
 「赦しなさい、そうすれば赦される。裁くな、そうすれば裁かれない」
このだれにでもわかる戒めは私たち一人一人を神の国へと送りうるのです。
 親愛なる兄弟姉妹のみなさん。人を裁かない人たちへの報酬はたいへん大きいのです。ですからわたしたちは自分を裁きの罪から守り、大斎に唱える克肖者シリアの聖エフレムの祝文をより頻繁に思い出しましょう。
「ああ主王よ、我に我が罪を見、我が兄弟を議せざるを賜へ、蓋爾は世世に崇め讃めらる。」アミン。
 

人を裁く罪について(前篇)

「「人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにするためである」(新約聖書―マタイ七章一節)  ロシア正教会 至聖三者セルギイ修道院 長老の説教 父と子と聖神(聖霊)の御名によりて 親愛なるキリストにおける兄弟姉妹の皆さん。聖使徒パウロはクリスチャンに教訓を与えるにあたって私たちが互いに神の言葉で教えあい、時がある間にあらゆる善に導くよう戒めています。私たちは神の旨が何を私たちに求めているかを知っていて、あらかじめ自分を重罪から守るように勤めていますが、ある種の罪は自覚せず、たいして重要なことと思わずに、その罪からのがれようとしません。しかし、すべてこれらの罪のためにわたしたち一人一人が神の義なる審判の前で答えを要求されるのです。これらの罪のひとつに人を裁く罪があります。  隣人を裁き、彼の弱さや欠点を嘲笑し、隣人の中にただ悪いことだけを見ることはある人たちにとって大きな満足で、これは人類共通(その中にはクリスチャンもふくまれていますが)の弱点となっています。私たちはしばしば誰かを裁くことなしに一日を送ることがないのです。私たちは親戚を裁き、知人を裁き、隣人を裁き、年長者、年少者、教会の牧者、自分の両親を裁くのです。ただ自分自身だけは裁きません。この際広く見受けられるこの病をほとんど病だとは思わず、あるいはまったく罪だと自覚しないか、罪ではあるがたいしたことはないと思っているのです。裁きを罪だと考えない私たちはこの罪から身を守ることをしません。しかし裁きの罪は重く、このことによって神の憐れみを失い、神の怒りを招くのです。  聖人伝には次のような話があります。ある修道士が荒野にすむイオアンという名の長老を訪問しました。長老は修道士に悪いうわさがたっている一人の兄弟について問いました。「彼は変わったかね」 修道士は兄弟が以前と同じように暮らしていると答えました。すると長老はため息をついて、「困ったことだ」と漏らしました。この言葉を発すると共に長老は眠りに落ちました。  夢の中で長老は不思議な異象を見ました。彼はゴルゴダにたっていて、盗賊の間に磔にされている我等の主イエス・キリストを見ています。長老は主のもとに向かおうとしましたが、近づけそうになったとき、キリストはそばにいる天使にむかって「彼を追い出しなさい、彼はわたしの敵対者、反キリストです。なぜなら彼はわたしが裁く前に自分の兄弟を裁いたからです」といいました。長老はおいだされ、修道のマントは奪われました。  荒野の修道士は目覚め、このような夢をみたことで恐怖に陥り、七年間を斎と絶え間ない祈りの中で過ごしました。七年が過ぎると再び夢にイエス・キリストが現れ、マントを返しました。このことから長老は裁きの罪が許されたことを悟ったのです。  私たちは隣人を裁く権利はありません。なぜなら神一人だけが戒めを与える方で審判者だからです。神だけが救うことも、滅ぼすこともできるのです。ただ神だけが感謝のない罪人を裁く権力をもっているのです。 「他人の僕を裁くとはあなたは誰なのか。主の前で立つのも倒れるのも。しかし彼は立ちます。なぜなら神には彼を立たせる力があるからです」と聖使徒パウロは言っています。行いによって隣人を裁いたり嘲笑したりするのは、あなたがすることではないのです。こうすることであなたはキリストの審判より自分を優先させているのです。  私たちの義務とは何で、隣人と私たちとのかかわりとはどのようなものでしょうか。隣人が持っているもの、身体の健康、美、富、霊(たましい)の才能や知識、これら全ては私たちが与えたものではありません。人はこれを神の憐れみによって受けるのであって、ただ神だけが人間から人がその才能をどのように用いたかという報告を正しく要求するのです。つまり才能を自分と隣人の益になるように用いたか、もしくは悪用したか、これら全てはただ神にだけ報告する義務があるのです。私たちの才能には限りがありますから私たちは隣人の行いを公正に評価し裁くことはできません。多くの場合私たちは隣人を内面の霊(たましい)の状態ではなく、外面的な行為やしるしで評価しているのです。 「人の中に生きている神(しん)のほかに人の中に何があるかわかるだろうか」と使徒パウロは言っています。隣人の行いを裁くとき、私たちは簡単に判断を誤るのです。私たちが隣人を裁いているとき、その隣人は涙を流し心を砕いて神の前で悔い、神に赦しを求めているかもしれません。しかし私たちは自分の裁きを主の裁きの上においているのです。そしてしばしばまったく罪のない人々を裁くのです。というのは私たちがかれらの罪ばかりを見、彼等の神の前での痛悔を見たくないからです。  私たちが絶えず覚えていなければならないのは、罪によって私たちの本性は腐っているため、人間はだれでも悪に傾きやすいのだということです。罪は愛していないし、罪を犯そうとも思わないが、人は生まれながらの傾向によってただただ罪を犯してしまうのです。  克肖者ドロフェイ師父は次のように語っています。ある日奴隷市で売られるために二人の少女の姉妹が連れてこられた。そのうちの一人は正しい女性に買われ、彼女は敬虔に育てられ、善行と神への信仰を教え込まれた。もう一人の姉妹は放蕩な女性に買われ放蕩と悪癖を教え込まれた。二人の少女が成長したとき、一人は愛と尊敬の対象となり、もう一人は全ての人に軽蔑され、退けられた。人間の裁きとはこのようなものですが主の裁きはこれとは違ったものです。主はただ行いや言葉で裁くのではなく、私たちの心の深みにまで浸透するのです。ですから心を見る主は一人一人にその行いによって正しく報いるのです。  遺伝や生まれつきの素質、幼少時にすごした環境、両親や教育者の性格、人が得た知識、これら全ては人が人生の道を選び、何かをおこなう際に大きく影響します。ですから私たちは罪のない人を裁くという罪に陥らないために、隣人を厳しく裁いてはいけません。  もし私たちが、三回ハリストスを拒んだ瞬間の聖使徒ペトルを見、キリストの迫害者だったときの聖使徒パワェルをみたらどうしていたでしょうか。もし私たちが悪い行いをしていたときのエジプトの聖マリヤや殉教者聖エウドキヤをみたらどうしていたでしょうか。おそらく私たちは彼等を厳しく裁いていたことでしょう。しかし彼等の心からの悔い改めと正しい行いは主から許しをいただくことになり、彼等は今天国の宮で楽しんでいるのです。私たちが裁いている隣人、知人は果たして善行に満ちた義人となりえないでしょうか。もちろんなりえるのです。罪人も義人となりえ、義人もその義を失うことがありえるのです。聖なる福音書には二人の人間が祈るために聖堂に入ったことが書かれています。ファリサイと徴税人です。ファリサイには善行があり、一見義人でした。しかし彼は高ぶって自分自身をほめていました。一方徴税人は裁かれ卑しめられていて、神から罰せられていました。徴税人には罪のほか何もなかったのですが、このことを自覚して嘆きました。そして主は彼を義としたのです。  隣人を裁くとき、私たちの心には愛もキリストとしての罪人や善行に満ちた人々への憐れみもなく、ただ悪い嫌な感情をもって彼等に接しているのです。自分の悪口や嘲笑をもって神の前では私たちよりもさらにふさわしいかもしれない隣人の名誉を汚しているのです。これは大きな罪です。  (つづく)

聖母(生神女)マリアの肖像

至聖なる処女マリアの髪の色は明るく、黒い眉の下に切れ長の目をしていた。顔の形は丸くもなく、鋭くもなく、卵型だった。彼女の手の指は長かった。彼女はよく働いた。もっとも好きなことは読書に従事することだった。彼女は息子キリストの血によって成聖された場所をよく訪れた。服装は貧しいと言ってもいいぐらい極めて質素だった。彼女の語る言葉の一つ一つが恩寵によって息づいていた。彼女が人々と対話する時、神と対話しているかのように感じられた。  聖アンブロシーが生神女について記述したところによると、「彼女は絶えず聖書を読み、疲れを知らずに働いた。彼女は誰をも傷つけることなく、すべての人に善を望み、たとえ卑しい人であっても、誰をも厭わなかった。また誰をも笑うことなく、見る物すべてをその愛によって覆っていた。彼女の口からは決して恩寵を運ばない言葉が出ることはなかった。全ての行いにおいて彼女は高潔なる処女の模範だった。」  彼女の聖性についての記述は同様にエピファニィとニキフォルの著にも見受けられる。 「神の母が話すことはまれで、ただ必要なことと善なることのみ話した。彼女は各人にしかるべき尊敬をもって接した。一人一人としかるべき対話をし、その際笑わず、困惑せず、まして厭うことなどなかった。彼女には傲慢のかけらもなかった。すべてのことにおいて単純で、すこしの偽りもなかった。」  捧神者聖イグナチイの書簡からはまた次のことが読み取れる。「神の母は苦難の時も迫害の時も喜びに満ち、貧しい時も窮乏のときも悲しまず、彼女に侮辱を加える者に対して怒らないだけでなく、喜ばしい出来事に際しては彼等に恩を施しさえした。彼女は温柔だった。彼女は貧しき人々に憐れみ深く、彼等に出来る限りの援助をした。我々の信仰に敵対する者に対しては断固として自分の立場を譲らなかった。イウデヤの律法学者やファリセイが彼女を嘲笑った時、彼女はどれほど謙遜だったことだろう。言われていたところによれば、イイススの母の内の人性は、彼女の聖性のために天使の性と結合しているかのように思われた。」

聖母(生神女)マリア像―ガリラヤのカナより

「ハリストス(キリスト)における謙遜」P.イワノフより 「マリアは神と人々を愛していた。なぜなら神を愛するということはすなわち人々を愛し、人々に同情することだからである。人々の呻きは見えずしてマリアの心に達していた。呻きだけでなく人間の最も微々たる苦情も彼女は聞いていた。  このことを我々は「ガリラヤのカナ」の婚配の話から判断することができる。まさしくカナで我々はイエス・キリストを生んだ女性の心がどのようなものだったかを知るのである。それは我々の前に奇跡として展開される。  『三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。 ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。 イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。 母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。 そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。 イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。 そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。 料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで 言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネによる福音書二章一~十一節)』  もし表面的に読めば、聖書のこの個所に対する我々の注意はぶどう酒に変化した水に向けられ、集中するだろう。これは弟子たちの前で行ったキリストの最初の印だった。  しかしこの個所を深く考慮すると、この婚宴で生神女と主(キリスト)の関係の奥義が見えてくる。そして我々は至聖なる処女マリアの将来の天上の生活をも予見するのである。  彼女の思いを貫いていたものは憐れみであった。彼女は婚宴の会場にぶどう酒が足りないことに気付いた。「かれらにはぶどう酒がありません。」彼女が息子キリストに発したこの短い言葉にすでに彼女の頼みが込められていた。もちろん家庭生活の経験からマリアはキリストなら可能だと知っていただろう。  しかしキリストはためらっている。「女よ、それが私とあなたに何の関係があるのですか。まだ私の時は来ていません。」彼は高きから見ている。これはあたかも、人々にとって不可欠とはいえない最もささいなことをキリストが拒んでいるかのようである。  しかしマリアは譲らない。彼女自身は処女であるのに、至聖なるマリアは彼女の聖性とはほとんど関係のない婚宴が楽しくあるようにと配慮しているのである。   聖書ではこの先の出来事の記述には省略があるようだが、これはもちろん処女マリアが語ることを好まないからである。彼女は息子キリストと言葉ではなく、心で会話していた。彼女の目は願いを表していた。そして彼女の息子は目で同意したのである。その時彼女は喜んで使いの者に行った。「彼があなたたちに言うことを、行ってください」と。彼女はキリストに嘆願した。  ガリレヤのカナで起こったことは、今も行なわれている。彼女はすべてを見、すべてを聞き、すべてに同情しているのである。  

世界について

 私たちが見ているもの全ては、空も、太陽も、月も、星も、雲も、私たちが生きている大地も、私たちが呼吸している空気も、そして地上にある全ては、草も、木も、山も、川も、海も、魚も、鳥も、獣も、生きものも、そして最後に私たち自身、人間も、これら全ては神が創造された。  世界は神の被造物である。  私たちは神の世界を見、それがいかに美しく知恵をもって構成されているかも理解している。  たとえば草原にいるとしよう。頭上高く、青い空と白い雲の天幕が張られている。地上には花々が散りばめられた生い茂った緑の草。草の間では様々な虫のさえずりが聞こえる。一方花々の上では蝶がひらひらと舞い、ミツバチや小さい羽虫が飛び交う。全地はここでは大きく美しい絨毯のようだ。しかし人間の織ったどんな絨毯も神の草原の美しさと比べることはできない。  森を通ってみよう。そこで私たちは多くの見た目にも形の面からも様々な木々を見る。そこでは大きいカシの木、スラリとしたモミの木、枝葉の茂った白樺、よい香りの菩提樹、背の高い松、生い茂ったはしばみがある。そこにも灌木や様々な草からなる小さな草原があり、いたるところで鳥の声、ぶんぶん羽をこすらす虫の鳴き声が聞こえる。森には何百という種類の獣が生息している。どれほどの野イチゴ、きのこ、様々な花々が森にあることだろう。これは大きな森の世界である。  では川を見てみよう。そこにはゆったりとした水の流れがあり、森、林、草原の中を流れる川は太陽の光線を受けてきらきら輝いている。川で水浴するのはなんと気持ちのいいことだろう。灼熱の暑さの中でも、水の中は冷たくて心地よい。そこにはどれほどの魚、カエル、水中生物がいることだろう。そこにも川独自の命、川独自の世界がある。  海がいかに偉大なことか。そこには独自の巨大で豊かな海中生物の世界がある。  山がいかに美しいことか。雲の上にそびえた万年雪と氷に閉ざされた頂。  地上の世界はその美によって奇異なるもので、そこはすべて命に満ちている。地上に生息する植物や動物―私たちの目には見えない最も小さなものから、最も大きなものまで―を全て数えあげることはできない。生きものたちはどこにでもいる。大地にも、水の中にも、空中にも、土壌にも、地下深くにさえもいる。すべてこれらの命を神は世界に与えた。  神の世界は豊かで多様である。しかし同時にこの巨大な多様さの中で神によって制定された驚くべき緻密な秩序、またはしばしば「自然の法則」と言われるものが支配している。すべての植物、動物はこの秩序に従って地上に繁殖している。誰が何によって養われるかが定められ、そのように養われている。すべてに一定の理性的な目的がある。この世にあるものはすべて生まれ、育ち、年をとり、死んでいく。あるものは他のものにとって代わられる。全てものに神はその時、場所、使命を与えた。  ただ人間のみが地上のいたるところで生き、全てを支配している。神は人間に理性と不死の魂を与えた。神は人間に特別な偉大な使命を与えた。つまり神を知り、神に似ることである。つまりますます善なる存在となり、永遠の命を継ぐという使命である。  外見上人間は白人、黒人、黄色人種にわかれる。しかしすべての人間は同様に理性的で不死の魂を持つ。この魂によって人間は他の全ての生きもの世界よりも秀でており、神に似るものとなる。  ではここで深い夜の闇の中、地上から空を見上げてみよう。私たちは空にちりばめられたどれほど多くの星を見ることだろう。その数は数えきれない。すべてこれは独自の世界である。多くの星はちょうど私たちの太陽や月のようであり、その何倍も大きいものもある。しかし地球から遠くに離れている分、私たちには小さな光る点のように見える。すべて星は軌道と星々の互いの法則にそって規則正しく動いている。私たちの地球もこの天の空間においては小さな光る点のように思えてくる。  神の世界は偉大で把握しがたい。それを数えたり、計ったりすることはできない。これらすべての範囲、重さ、数を知っているのはただ全てを創造した神のみである。  この全世界を神は人々の生活と利益のため、私たち一人一人のために創造された。これほどまでに神は無限の愛で私たちを愛しているのである。 もし私たちが神を愛し、神の掟にしたがって生きるのなら、世界の多くの不可解なことが理解可能で明らかなものとなり、私たちは神の世界を愛し、全ての人と友好、愛、悦びの内に生きることになるだろう。その時この喜びはいかなるときも、どこにいようとも終わることはない。そして、誰もそれを奪うことはない。なぜなら神自身が私たちと共におられるからだ。  しかし私たちが神に属していることを理解するためには、神に近付き、神を愛さなければならない。つまり地上における自分の使命を果たし、永遠の命を受け継がなければならない。我々はより多く神について知り、神の聖なる意思、つまり神の戒めを知らねばならない。

人間の歴史ー旧約と新約

 神は常に愛のうちに生きておられる。神とはキリスト教の至聖三者の神のことで、三つの位格からなり、神・父、神・子(イエス・キリスト)、神・聖神である。神・父が神・子、神・聖神を愛しているように、神・子も神・父、神・聖神を愛し、同様に神・聖神も神・父、神・子を愛している。神は愛である(第一イオアン四章八節) 愛のうちにある生活とは偉大なる喜びであり、高位の福楽である。そこで神は他の存在もこの喜びを享受できるようにと思し召された。このために神は世界を創造された。  最初に神は天使の世界を創造された。その後、私たちの地上の世界を創造された。私たち、人間に主(神)は理性と不死の魂を与え、ある使命をも与えられた。それは神を知り、ますます善なる存在となること、つまり神とお互いへの愛のうちに完成され、ここから人生においてより大きな喜びを得ることである。  しかし人々は神の意志を破ってしまった。つまり罪を犯したのである。その罪によって人間の理性、意思は暗み、肉体には病と死が入り込んできた。人々は苦しみ、死ぬようになった。人々は自分自身の力では、自分自身のうちにある罪とその所産に打ち勝つことができなくなった。つまり理性と意思と心を改め、死を撲滅することができなくなったのである。   これができるのは唯一全能の神だけである。全知全能の神は世界創造の前から全てを知っていた。最初の人々が罪を犯した時、神は彼等に世界に救世主、神の子、イエス・キリストが来ることを告げ、この救世主が罪に勝ち、人々を永遠の死から救い、彼等に愛と永遠の命、福楽を返すことを告げたのである。  世界創造から地上に救世主が到来するまでの時代を「旧約」の時代と言っている。つまり昔の(古い)合意、もしくは神と人々との関係のことである。この旧約に基づいて神は人々を約束された救世主の受容へと準備した。人々は神の約束を覚えていなければならなかったし、キリストの到来を信じ、待たねばならなかった。  この約束の実現、地上への救世主、神の独生の子、我等の主、イエス・キリストの到来を新約と呼んでいる。つまりイエス・キリストが地上に現れ、罪と死に打ち勝ち、人々と新しい関係、合意を結んだことである。この新約に基づいて、全ての人々はキリストが地上に立てた教会を通して、再び失われた福楽―神との永遠の命を得ることができるのである。

全てのことに意味がある

あなたは、自分の不幸を環境のせいにしていますね。 お父さんが悪い、先生が悪い、神父さんが悪い・・・ でも、神様はあなたの救いに必要なことを、すべて与えています。 すべてはあなたの救いのためなのです。 聖人伝を読んだことがありますか。 いろいろな聖人がいます。 修道士もいれば、結婚している人もいます。 お金持ちの人もいれば、貧乏な人もいます。 でも、彼等は与えられた環境の中で、聖人になりました。 それは、彼等がどんな環境の中でも、神様の戒めを守っていたからです。 つまり、神様への愛と隣人への愛の戒めを守ったからです。 あなたには悲しみがあります。あなたは病気になりました。 でも、落ち込まないでください。 聖書には、なんと書いてありますか。 「神は愛するものを鍛える」と書いてありますね。 金がいろりの中で清まるように、 人間も悲しみの中で清まるのです。 ですから、悲しみの中にあるとき、 神がわたしを見放した、と思ってはいけません。 逆に、神様は私たちに救いを与えたいのです。 神様は、私たちに永遠の命を与えたいのです。 アトスの故パイーシー長老は言っています。 神様がこの世での苦しみを人間に許されるのは、 永遠の視点から、人間が苦しみに耐えたことで受ける来世での報いを優先的に 考えておられるからだ、と。 ですから、感謝して喜ばなければなりません。 病気の時に感謝するのは、大きな徳です。 人間は幸せな時、神様の恵みに感謝しなければなりません。 しかし、人間は幸せなとき、しばしば神様を忘れ、 もっとお金がほしい、もっと強くなりたい、と思うものです。 つまり、外面的なこと、 物質的なこと、肉体的なことを追い求めるのです。 不幸な時は、自分を省みて、反省します。 内面的なことに目を向けるのです。 それで人間の内面は豊かになります。 また昔の修道者は「誘惑がなければ、誰も救われない」と言っています。 試練があると人間は経験をつみます。神はこのように、時々不幸を与えて、人間を救いに導きます。人間の救いの道はこのように完成するのです。

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