謙遜1(ソートニッツアより)

 師父ドロフェイは、罪との戦いにおける我々の救いにとって何よりもまず我々には謙遜が必要だと言っている。「我遜れり、かくして主は我を救い給えり(聖詠)」  我等の救主ご自身が、私たちが温柔であるのをご覧になりたい願い、全ての人々を教えさとしている。「わたしは柔和で謙遜な者だから、私に学びなさい。」(マトフェイ十一章二十九節)  ハリストスの謙遜について語りながら、克肖者イシヒイは書いている。『「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(マトフェイ十八章四節)「高ぶる者は低くされる」(ルカ十八章十四節)私から学びなさいと言っている。何を学ぶかお分かりだろうか。謙遜である。「父の命令は永遠の命である」(イオアン十二章五十節)。この戒めとは謙遜のことである。つまり謙遜でないものは、命から落ちたのである。』  福たる謙遜が欲望を殺す者と言われているのは理にかなっている。何故なら克肖者・階梯者イオアンの言葉によれば「この善行(謙遜)を身に付けたものは、すべての欲望に打ち勝ったからである。」ある長老は、我々の生涯は謙遜を得るための戦いだと言った。何故なら完全に傲慢から免れることが必要だからだ。つまり師父ドロフェイが言っているように「自分の兄弟を自分より頭がよく、全てのことにおいて自分より優れている者とみなし、自分の偉業を神に帰すために、自分がすべての人より下であるとみなすように学ばなければならないからだ。」  すべての聖人は自分のことを大罪人とみなしていた。彼らが完全なる謙遜を有していたにも関わらず、である。つまり彼等は全ての善なる行いと善行を神に帰し、一方自分を全ての人よりも劣るものとみなし、シナイの克肖者グリゴリイが語っているように、自分をあらゆる家畜よりも、被造物よりも劣り、悪魔よりも卑しいものとみなした。何故なら自分たちは悪魔の奴隷になっているからである。このような謙遜をハリストスの使徒たちも抱いていた。福たる使徒パワェルは深い謙遜から叫んでいる。「ハリストス・イイススは罪人を救うために世に来た、われそのうちの第一なり」(第一ティモフェイ一章十五節)  貞潔と秩序を伴った謙遜について克肖者シリアのイサアクは的を得た言葉を述べている。彼はこう教えている。「神への畏れからの謙遜もあれば、神への愛からのものもある。また喜びからくる謙遜もある。神の畏れから謙遜になったものにはいかなる時もすべての器官における慎み深さ、感覚の秩序正しさ、砕けた心を伴っている。謙遜なる者たちの集まりは天使セラフィムの集会のように神に愛されている。貞潔なる体は、清らかな捧げもののように神の前に尊い。この二つの善行、謙遜と貞潔は魂の中に至聖三者のための聘質を用意する。 謙遜な者は克肖者シナイのグリゴリイによれば「彼を誘惑に陥れたものに恨みを抱くことなく、彼等に感謝の意を表し、あたかも恩を施す者に対するがごとく、彼等のために祈る。」このために彼は自分の罪の赦しと神の祝福を受けるのである。  「真に謙遜なものは義とされなくとも困惑することなく、義とされなかったことについて自分を守るために何かを言うことなく、中傷を真実のように受け止め、自分が中傷されたと人々を説得しようとせず、赦しを求める。」(克肖者シナイのイサアク)  このような謙遜は福たるディアドフの教えによれば、恩寵によってのみ可能である。初心者が自分について謙遜な思いを抱くのは「肉体的な弱さや、義なる生活に熱心なものに敵する人たちからのいやがらせや、悪い考えによって」である。  師父たちは真の謙遜と偽りの謙遜と区別する必要があると教えている。何故なら克肖者新神学者シメオンが語っているように「怠慢や良心の強い呵責から生じる偽りの謙遜というものがあるからだ。この謙遜を持っている者はしばしばそれを救いの原因だと思うが、これは本物の謙遜ではない。何故なら謙遜と結びつくはずの喜びを引き起こす涙がないからである。」  克肖者ニキータ・スティファトはこの偽りの、滅びを招く謙遜の誤りをあらわにし、神の喜ばれる謙遜を指示して書いている。「謙遜は、多くの人がこの善行の本質と考えているような首を傾げることや髪を下ろすことや だらしのない、粗雑で粗末な衣服に有るのではなく、心の嘆きと霊(神―しん・ドッフ)の謙遜さにある。これは聖ダヴィドが言っていることである。「謙遜なる霊(神―しん・ドッフ)、砕かれた謙遜なる心を神は軽んじ給わず」(第五十聖詠十九節)  神に喜ばれる謙遜は偉大なる努力と苦行によって得られる。このことについてシナイの克肖者グリゴリイが詳しく教え、七つの様々な行いと心持がクリスチャンを心と霊(神―しん・ドッフ)の真の謙遜へと導くと言っている。沈黙を愛し、自分についての謙遜なる考えをもつたなければならない。」  この砕けた心の状態で魂は自分を全ての人々より劣り、下位のものと感じる。これは摂理的な謙遜と呼ばれる。一方この状態は神の憐れみをひきつけ、この時クリスチャンについに全ての善行の力および完成と呼ばれる完全なる謙遜が与えられる。この謙遜は善き行いを全て神に帰すのである。  この神から与えられる謙遜を得る為には智、心、意思の偉大なる警醒が必要である。   
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。