聖母(生神女)マリア像―ガリラヤのカナより

「ハリストス(キリスト)における謙遜」P.イワノフより 「マリアは神と人々を愛していた。なぜなら神を愛するということはすなわち人々を愛し、人々に同情することだからである。人々の呻きは見えずしてマリアの心に達していた。呻きだけでなく人間の最も微々たる苦情も彼女は聞いていた。  このことを我々は「ガリラヤのカナ」の婚配の話から判断することができる。まさしくカナで我々はイエス・キリストを生んだ女性の心がどのようなものだったかを知るのである。それは我々の前に奇跡として展開される。  『三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。 ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。 イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。 母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。 そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。 イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。 そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。 料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで 言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネによる福音書二章一~十一節)』  もし表面的に読めば、聖書のこの個所に対する我々の注意はぶどう酒に変化した水に向けられ、集中するだろう。これは弟子たちの前で行ったキリストの最初の印だった。  しかしこの個所を深く考慮すると、この婚宴で生神女と主(キリスト)の関係の奥義が見えてくる。そして我々は至聖なる処女マリアの将来の天上の生活をも予見するのである。  彼女の思いを貫いていたものは憐れみであった。彼女は婚宴の会場にぶどう酒が足りないことに気付いた。「かれらにはぶどう酒がありません。」彼女が息子キリストに発したこの短い言葉にすでに彼女の頼みが込められていた。もちろん家庭生活の経験からマリアはキリストなら可能だと知っていただろう。  しかしキリストはためらっている。「女よ、それが私とあなたに何の関係があるのですか。まだ私の時は来ていません。」彼は高きから見ている。これはあたかも、人々にとって不可欠とはいえない最もささいなことをキリストが拒んでいるかのようである。  しかしマリアは譲らない。彼女自身は処女であるのに、至聖なるマリアは彼女の聖性とはほとんど関係のない婚宴が楽しくあるようにと配慮しているのである。   聖書ではこの先の出来事の記述には省略があるようだが、これはもちろん処女マリアが語ることを好まないからである。彼女は息子キリストと言葉ではなく、心で会話していた。彼女の目は願いを表していた。そして彼女の息子は目で同意したのである。その時彼女は喜んで使いの者に行った。「彼があなたたちに言うことを、行ってください」と。彼女はキリストに嘆願した。  ガリレヤのカナで起こったことは、今も行なわれている。彼女はすべてを見、すべてを聞き、すべてに同情しているのである。  
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