人を裁く罪について(前篇)

「「人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにするためである」(新約聖書―マタイ七章一節)  ロシア正教会 至聖三者セルギイ修道院 長老の説教 父と子と聖神(聖霊)の御名によりて 親愛なるキリストにおける兄弟姉妹の皆さん。聖使徒パウロはクリスチャンに教訓を与えるにあたって私たちが互いに神の言葉で教えあい、時がある間にあらゆる善に導くよう戒めています。私たちは神の旨が何を私たちに求めているかを知っていて、あらかじめ自分を重罪から守るように勤めていますが、ある種の罪は自覚せず、たいして重要なことと思わずに、その罪からのがれようとしません。しかし、すべてこれらの罪のためにわたしたち一人一人が神の義なる審判の前で答えを要求されるのです。これらの罪のひとつに人を裁く罪があります。  隣人を裁き、彼の弱さや欠点を嘲笑し、隣人の中にただ悪いことだけを見ることはある人たちにとって大きな満足で、これは人類共通(その中にはクリスチャンもふくまれていますが)の弱点となっています。私たちはしばしば誰かを裁くことなしに一日を送ることがないのです。私たちは親戚を裁き、知人を裁き、隣人を裁き、年長者、年少者、教会の牧者、自分の両親を裁くのです。ただ自分自身だけは裁きません。この際広く見受けられるこの病をほとんど病だとは思わず、あるいはまったく罪だと自覚しないか、罪ではあるがたいしたことはないと思っているのです。裁きを罪だと考えない私たちはこの罪から身を守ることをしません。しかし裁きの罪は重く、このことによって神の憐れみを失い、神の怒りを招くのです。  聖人伝には次のような話があります。ある修道士が荒野にすむイオアンという名の長老を訪問しました。長老は修道士に悪いうわさがたっている一人の兄弟について問いました。「彼は変わったかね」 修道士は兄弟が以前と同じように暮らしていると答えました。すると長老はため息をついて、「困ったことだ」と漏らしました。この言葉を発すると共に長老は眠りに落ちました。  夢の中で長老は不思議な異象を見ました。彼はゴルゴダにたっていて、盗賊の間に磔にされている我等の主イエス・キリストを見ています。長老は主のもとに向かおうとしましたが、近づけそうになったとき、キリストはそばにいる天使にむかって「彼を追い出しなさい、彼はわたしの敵対者、反キリストです。なぜなら彼はわたしが裁く前に自分の兄弟を裁いたからです」といいました。長老はおいだされ、修道のマントは奪われました。  荒野の修道士は目覚め、このような夢をみたことで恐怖に陥り、七年間を斎と絶え間ない祈りの中で過ごしました。七年が過ぎると再び夢にイエス・キリストが現れ、マントを返しました。このことから長老は裁きの罪が許されたことを悟ったのです。  私たちは隣人を裁く権利はありません。なぜなら神一人だけが戒めを与える方で審判者だからです。神だけが救うことも、滅ぼすこともできるのです。ただ神だけが感謝のない罪人を裁く権力をもっているのです。 「他人の僕を裁くとはあなたは誰なのか。主の前で立つのも倒れるのも。しかし彼は立ちます。なぜなら神には彼を立たせる力があるからです」と聖使徒パウロは言っています。行いによって隣人を裁いたり嘲笑したりするのは、あなたがすることではないのです。こうすることであなたはキリストの審判より自分を優先させているのです。  私たちの義務とは何で、隣人と私たちとのかかわりとはどのようなものでしょうか。隣人が持っているもの、身体の健康、美、富、霊(たましい)の才能や知識、これら全ては私たちが与えたものではありません。人はこれを神の憐れみによって受けるのであって、ただ神だけが人間から人がその才能をどのように用いたかという報告を正しく要求するのです。つまり才能を自分と隣人の益になるように用いたか、もしくは悪用したか、これら全てはただ神にだけ報告する義務があるのです。私たちの才能には限りがありますから私たちは隣人の行いを公正に評価し裁くことはできません。多くの場合私たちは隣人を内面の霊(たましい)の状態ではなく、外面的な行為やしるしで評価しているのです。 「人の中に生きている神(しん)のほかに人の中に何があるかわかるだろうか」と使徒パウロは言っています。隣人の行いを裁くとき、私たちは簡単に判断を誤るのです。私たちが隣人を裁いているとき、その隣人は涙を流し心を砕いて神の前で悔い、神に赦しを求めているかもしれません。しかし私たちは自分の裁きを主の裁きの上においているのです。そしてしばしばまったく罪のない人々を裁くのです。というのは私たちがかれらの罪ばかりを見、彼等の神の前での痛悔を見たくないからです。  私たちが絶えず覚えていなければならないのは、罪によって私たちの本性は腐っているため、人間はだれでも悪に傾きやすいのだということです。罪は愛していないし、罪を犯そうとも思わないが、人は生まれながらの傾向によってただただ罪を犯してしまうのです。  克肖者ドロフェイ師父は次のように語っています。ある日奴隷市で売られるために二人の少女の姉妹が連れてこられた。そのうちの一人は正しい女性に買われ、彼女は敬虔に育てられ、善行と神への信仰を教え込まれた。もう一人の姉妹は放蕩な女性に買われ放蕩と悪癖を教え込まれた。二人の少女が成長したとき、一人は愛と尊敬の対象となり、もう一人は全ての人に軽蔑され、退けられた。人間の裁きとはこのようなものですが主の裁きはこれとは違ったものです。主はただ行いや言葉で裁くのではなく、私たちの心の深みにまで浸透するのです。ですから心を見る主は一人一人にその行いによって正しく報いるのです。  遺伝や生まれつきの素質、幼少時にすごした環境、両親や教育者の性格、人が得た知識、これら全ては人が人生の道を選び、何かをおこなう際に大きく影響します。ですから私たちは罪のない人を裁くという罪に陥らないために、隣人を厳しく裁いてはいけません。  もし私たちが、三回ハリストスを拒んだ瞬間の聖使徒ペトルを見、キリストの迫害者だったときの聖使徒パワェルをみたらどうしていたでしょうか。もし私たちが悪い行いをしていたときのエジプトの聖マリヤや殉教者聖エウドキヤをみたらどうしていたでしょうか。おそらく私たちは彼等を厳しく裁いていたことでしょう。しかし彼等の心からの悔い改めと正しい行いは主から許しをいただくことになり、彼等は今天国の宮で楽しんでいるのです。私たちが裁いている隣人、知人は果たして善行に満ちた義人となりえないでしょうか。もちろんなりえるのです。罪人も義人となりえ、義人もその義を失うことがありえるのです。聖なる福音書には二人の人間が祈るために聖堂に入ったことが書かれています。ファリサイと徴税人です。ファリサイには善行があり、一見義人でした。しかし彼は高ぶって自分自身をほめていました。一方徴税人は裁かれ卑しめられていて、神から罰せられていました。徴税人には罪のほか何もなかったのですが、このことを自覚して嘆きました。そして主は彼を義としたのです。  隣人を裁くとき、私たちの心には愛もキリストとしての罪人や善行に満ちた人々への憐れみもなく、ただ悪い嫌な感情をもって彼等に接しているのです。自分の悪口や嘲笑をもって神の前では私たちよりもさらにふさわしいかもしれない隣人の名誉を汚しているのです。これは大きな罪です。  (つづく)
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たっちゃん

生マOコ気持ち良過ぎだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!
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こんないい思いして稼げる仕事初めてだわ
by たっちゃん (2010-01-23 22:13) 

タソタソメソ


女の子の前でチンチンさらけ出すの恥ずかちぃぃぃ!!!!(ノ∀≦)
とか思ってたけど、イザやってみたらめちゃ楽しかったwwwwww

「きもちいぃの~?(*‘∀‘)」て言われながら細い指でシッコシコ!!!
勢いあまっていつもの2倍くらい出しちまったぜぇぇぇ!!wwwww

てかこんだけで3万もらったんだけど、正気ですか!?www
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by タソタソメソ (2010-01-26 01:54) 

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