裁かないこと
「神父さん、私は友達の罪を見て、友達を心の中で裁き、批判しました。」
「私たちは裁きの罪に陥りやすいけれど、人を裁くことは大きな罪です。
聖書には『裁くな、そうすれば裁かれない』と書かれています。私たちは簡単に人を裁くけれど、同じ罪をおかしているかもしれません。気づいていないだけかもしれません。もしかしたら罪を犯す機会がなかっただけかもしれません。機会があったら同じ罪をおかすかもしれません。人間はみな弱いのです。また、罪を犯した人は私たちが知らない間に悔い改めて、もう神様に赦しをもらっているかもしれません。神様が赦している人を裁くのですか。人の罪を裁くよりも、自分の罪を見て、悔いることの方がもっと大切です。昔の人は言いました。『自分の罪を見ることは、天使を見ることよりも偉大だ』と。自分の罪を見ると、自分の弱さがわかります。自分の弱さを知って、謙遜になった人は、人を裁くことをやめます。そして平和な心をもつようになります。心に平和がない時は、お祈りも神様に喜ばれません。聖書には、祭壇にささげものをする前に、兄弟と仲直りをしなさい、と書いてあります。教会に来る時も、隣人と平和を保ちなさい。」
妬まないこと(嫉妬しないこと) [エッセイ]
神様は一人一人の人間に、様々な個性と才能を与えました。
もし、十人いれば、十人とも個性も才能も違います。
他人に自分にはない才能があっても、才能が自分より上だと思っても、妬まないでください。
神様の賜物は様々です。
才能が異なっているのは、一人一人が自分の才能を使って、人々に仕えるためです。
人々が互いに支え合い、互いに助け合い、お互いの足りないところを補い合うのです。
ここから感謝と愛の心が生まれます。
聖書には「わたしたちはキリストの体の一部だ」と書いてあります。
それぞれに役割が違います。
しかし、愛によって結ばれ、一致するのです。
これが人間社会の意味です。
妬んでも(嫉妬しても)得になることはありません。
自分の心に平安を失って、損をするだけです。
自分より才能がある人と出会いました。
それは、自分自身をつつましく評価して、謙遜になるためです。
ですから、妬むのをやめて、むしろ隣人を尊敬し、
謙遜と愛によって隣人に仕えましょう。
見えざる戦い [エッセイ]
ロシアには悪魔払いをする高名な神父さんがいる。悪魔払いと聞くと何か恐ろしい感じがするかもしれないが、正教徒にとって悪魔の存在は天使の存在を信じるがごとく明白である。正教会の教えによれば、神は世界創造の際、人間より先に見えない霊的な世界、天使の世界を創造された。天使は肉体をもっていない霊的な知的な存在で、神からの光を受けて輝いている。しかしこの天使の一部が神に妬みをもやし、神と等しくなろうと傲慢になったところから、堕落し光のころもを奪われてしまった。こうして神から遠ざけられた天使は黒い醜い存在となり、常に悪を心に抱く悪魔となってしまったのである。
見える世界が作られたのはその後であった。天体が造られ、植物、動物が造られ、最後にこの世界の王として世界を納めるべく創造されたのが人間であった。人間は土から作られたが、神の息を吹き込まれた非常に完成された存在であった。そこで悪魔は人間に対して妬みを抱き、人間を神から引き離し、自分と共に堕落させようとした。そして最初に造られた人アダムは悪魔の誘惑に負けて禁断の木の実を食べてしまうのである。その後も悪魔と人間との戦いは続いていて、悪魔は見えずして絶えず人間に妬み、懐疑心、憎しみなどの悪い考えを吹き込んでいる。(だから正教会的には隣人が自分に対して罪を犯したとき、隣人を憎むのではなくて、隣人を悪へとそそのかした悪魔の仕業を憎むように教えている。「罪を憎んで、人を憎まず」である。)一方天使は神からの善い考えを人間に吹き込み、人間を神と善行へと向かわせようとする。ほとんどの人はこの見えざる世界の戦いに気付かずに、悪い考えを自分の固有のものとして信じ込み、人を嫌い、しいては戦争という惨事にまで発展してしまう。これは悪魔の思うつぼである。
正教徒は洗礼の際「悪魔の仕業を断つか」と神父さんに問われ、「断つ」と宣言し、悪魔と縁を切ることを誓う。しかしそののちも悪魔は絶えず悪い考えをもって誘惑し続けるので、いつのまにかその考えに同意し、言葉と行動で罪を犯してしまうのが人間の弱いところである。そこで悪魔のそそのかしに負けて罪を犯したことを正直に認め、赦しのために正教徒は痛悔機密(懺悔)を受けるのである。正教徒にとって大切なことは、まず最初に心の中で悪魔からの悪い考えを拒むことである。その際に用いられるのが祈りであり、この戦いの際に「主、憐れめよ」と神の助けを求める。この一瞬の戦いに勝つこと、これが一生の修行であり、この悪い考えから守られ、心を清くたもてるようにと祈りも増やすのである。
ギリシャの有名なアトス山の故パイーシー長老は次のような話を残している。
「生活、その中には家庭生活も含まれますが、人々を概して二つのカテゴリーに分けることができます。一つのカテゴリーの人々はハエに似ています。ハエは次のような特性を持っています。いつも汚いところにとまっていて、よい香りのする花を避けて飛びます。ハエに似ている人々のカテゴリーとは、悪いことばかりを考え、探すことになれ、決して善を知らず、善を探そうとしない人々のことです。もう一方のカテゴリーは蜂に似ています。蜂の特性とは美しく甘いものを見つけ、美しく甘いものの上に止まり、汚いものを避けることです。このような人々は良い考えを持っていて、よいものを見、よいことだけを思うのです。私は他人を訴えることになれた人々全てに、その中には夫婦もいますが、彼等がどちらのカテゴリーに属したいか、と問います。」
絶えざる悔い改めをし、心を清く保つことになれた人の心には愛が宿り、世界と人々を愛すべきものとして見る。しかし残念ながらハエのカテゴリーに属しがちな人は常に悪に目を向け、虜になってしまう。このように悪魔の悪い考えに呪縛されてしまった人々がいる。そしてそれをいやすのが悪魔払いができる神父さんである。
この仕事は誰にでもできる仕事ではなく、非常に徳を積み、善と愛に充ち溢れ、神から悪魔払いの賜物を授かった人にしかできない。
セルギイ修道院のG神父さんも毎日この仕事に従事していて、ロシア各地からそして外国からも自分が悪魔に憑かれたと思う人々が癒しのためにやってくる。
G神父さんと知り合いになったので、わたしもラドネジの聖堂で祈ってもらった。実はこれはホラー映画ででてくるような怖いものではなく、愛に満ちたものである。聖堂にいた他の神父さんたちも、わたしも悪魔から自由になりたいと皆G神父さんの御祈りにあずかりだした。謙遜な人は自分も悪魔に負けやすいと素直に認めているのである。そしてそのあと、G神父さんがいつも悪魔払いの仕事をしているセルギイ修道院の聖堂に案内して下さった。
あふれんばかりの人が聖堂につめかけ、押し合うほどだ。G神父さんは説教を交えながら祈りを唱え、主に人々に犯した罪を思い出させて、悔い改めの心を作り出している。そして聖なる水(聖水)をかけたり、金の十字架を人々にあてがって悪魔から守り、神の祝福を乞うている。私は外国人ということで、特別に一番前でお祈りに与らせてもらった。G神父さんがわたしの前までくると、5分間ぐらい熱心にわたしの背中の腰のあたりを十字架でさすった。わたしは感動してしまった。実はわたしは赤ん坊の時に二階から一階に転落し背骨を痛めて大変苦しんだことがあるのだ。もちろんG神父さんにはそのことを話したことはない。しかしこの方も神からの慧眼の賜物で私の過去と病がわかってしまわれたのだ。そしてその時感じたG神父さんの心がとても温かく穏やかで愛にみちていた。このような人だから悪魔が遠ざかるのかと改めて自分の卑小さがわかった。
その後もこの見えざる戦いは続いている。まずは人を裁くことを悔い改め、妬むことを悔い改め、そして最近少し心に穏やかな喜びを感じられるようになってきた。しかしこの戦いに勝利すると心に神の愛が宿り、夜となく、昼となく心は燃えるという。セルギイ修道院で出会った神父様たちの深い愛を思うとき、そのことを思い出す。私はまだまだ修行が足りない。まだまだ悔い改めの人生である。
日本の聖ニコライの説教ー領聖につきて
明治四十一年三月十四日大斎初週の土曜日の説教
父と子と聖神の名による。
あなたがたが皆自分を準備して今聖体機密に与ろうとするのは、大変喜ばしいことです。あなたがたがまさに与ろうとするこの聖機密があなたがたの霊を養うように、この機密の教えを少し述べましょう。
神造物主は初め人を創造されたときに人の身体を土より造られましたが、その口から気を吹いて人に霊を付し与えられました。このため、人は身体では地に属しても、霊では天に属し、身体は霊に応じてだんだんと成長進歩して、ついにハリストスの復活の後の体のように、身体は霊に適うものとなるべきはずでした。
しかしわたしたちの身体は霊に適わなくなっただけでなく、かえって身体は霊を己に従わせて、人類は罪に陥りました。こうして全人類はついに罪の中に永遠に亡びるものとなったのです。
しかし神は限りない仁慈をもつ愛の神ですから、人を罪の中から救う道を立て、神の子イイスス・ハリストスは人体を受けてこの世に現れ、わたしたちを救われたのです。あなたたちが今まさに領食しようとするこの聖体機密によって、あなたたちはこの救いに預かるものとなりました。こうしてあなたたちは主ハリストスに共興する者となり、皆永遠の生命を受けるのです。
しかしこの機密に与るためにはまず自分を清めなければなりません。つまりわたしたちの心にある様々な不浄不潔を取り去って、清いものとならなければならないのです。自分を清くするために第一に必要なことは、各人が謙遜の心を養うべきことです。御覧なさい。人類が始めに罪に陥ったのは高慢の罪が原因でした。元祖は神のようになろうとの傲慢心のために永遠に亡ぶものとなったのです。ですから主ハリストスは初めて福音の伝道をされたときに、まず「神(しん)の貧しき者は福(さいわい)なり」と言われて、第一に謙遜のことを教えられました。私たちの多くの罪はみなこの傲慢、高慢の心から生ずるのです。人々の中にはこの自負自慢によって神を信じないものもいます。わたしたちは自分を省みるとき、自分の中に何か誇りとするものがあるでしょうか。自分の才能を自ら認めるとしましょう。しかしこの才能も神の賜物ではありませんか。何か自分に美しいものがあると自負していますか。これは皆神の賜物ではありませんか。わたしたちは一つも、塵一つも自分を誇るべきものを持たないのです。
もしわたしたちがこのことを認めなければ、ついに謙遜の心を失って、ますます憤怒の罪に陥ります。怒りの心によってすこしも他人のよい点を認めることができずに、ついに怒りが憎しみとなり、殺人という大きな罪さへも犯すことになるのです。
ですから、第一に謙遜の心を持って、各人が自分の罪を認め、他人の罪を数えず、謙遜をもって人生を送りましょう。この教訓は斎の祈祷の中で詳しく学びました。願わくは神の恩寵によってまさに領けようとする聖機密がわたしたちの定罪とならず、永生の養いとなるように。
霊性を求めて - ロシアの修道院巡礼 [エッセイ]
私たち正教徒一人一人に課された課題は、神の誡めを守り、キリストに従って、天の国に到達することであるが、日常生活の中でそれを完全な形で希求するのは難しい。この世の常識、理念が神の誡めの実行の障害になり、信者が悩むことも多い。そこで、より完全に神の誡めの道を歩もうとするのにふさわしい場として存在するのが修道院である。
修道士たちは修道院で、従順、清貧、貞潔の誓いをする。そしてさらに祈りをもっとも大切な仕事とする。
修道士たちは祈りを絶え間なく行う。祈りを行い従順の義務を果たしていると、最初に自分の醜さに深く気づく状態に到達し、自分を嘆く涙がこぼれる「涙の谷」をとおる時期が来るという。謙遜という状態である。聖書でも「心の貧しきものは幸いなり(マタイ五章三節)」とイエス・キリストが山上の垂訓の中で始めているように、謙遜は正教会での救いにとって善行の基盤、始めである。修道士たちの霊性はまさにこの謙遜から始まる(だから修道院に行って感じるのは、自身善行を身につけた修道士たちが私たちを見下すことがない、ということだ。)そしてこの涙は、ちょうど汚れたものを清める水のように、魂の汚れを清める。そして涙によって清まった魂に神の恩寵が注がれる時期が来た時、正教会でいう神の愛が人間の中に実現するのである。これが家族愛、友人間などの自然的な愛を超えた、神の愛に似た全ての人を愛する愛なのである。
わたしは洗礼を受けてからしばしばロシアの修道院を順礼し、特にセルギイ修道院とそのポドヴォリエを多く訪問し、修道士たちに魂の救いに関する貴重な話をうかがう機会を得た。そこで感じたことを少しつづってみたいと思う。
セルギイ修道院では創始者聖セルギイのことを皆「克肖者」と呼んでいる。「克肖者」とは修道聖人に対する称号で、大変善良なという意味である。彼等は絶え間ない心の静寂、祈り、痛悔(悔い改め)によって、欲望によって暗まされた神の像と肖を回復し、思いと感情と行いにおいて神に似たものとなった。正教会では人間が創造されたときに神の像と肖に似せて、つまり神の似姿を持った者として創造されたとい言う。像は失われることがないが欲望と罪によってくらまされる可能性があり、肖は善行によってさらに増していくことができるものである。 聖セルギイは母の胎にいた時からその奇跡で神に特別に選ばれた者であることを示した大聖人である。両親もその善行で崇められ、共に聖人として列聖され、セルギイ自身もこの両親のもとで正教会の教える善行を身につけて育った。故にセルギイは自分の境遇、善行に誇りをもつプライドの高い人物となることもできたのであるが、セルギイ祭の祈りの中にはセルギイがやはり修行の中で痛悔の涙をこぼした、というくだりがある(十月八日聖セルギイ祭、早課の規定第四歌頌「光栄なるセルギイよ、爾は預言者の如く涙の滴(したたり)を以て日々に爾の褥(しとね)を潤して、慾の海を涸らし盡(つく)すに至れり」)。どんなに偉大な人物の霊(たましい)の中にも人類の陥罪の傷跡があり、その普段は見えない堕落した本性を神の恩寵によって直視したとき、自分を心より罪人と思う、深い謙遜と涙が生まれる。セルギイが到達したのはこの深い謙遜、そしてそこから生まれる温柔、愛であった。この謙遜と温柔と愛に満ちたセルギイの霊性は後にロシア正教会の多くの信者の霊的生活の模範となった。
すべての人間の中には神の像と肖があり、それが欲望によって暗まされているところに、人間の悲劇がある。概して言うと欲望は本来人間の魂の性質には備わっていない、付加されたものである。ただし怒りなどのように魂の中にもともと備わった欲望もあるが、これは本来罪に対して向けられるべく備えられたもので、人に対して向ける怒りとは、欲望の誤用である。そこで正教会の悔い改めと領聖(聖餐)、善行、祈りの生活の中でこの人間にとって不自然な欲望が清まれば、程度の差こそあれ、神の像と肖は次第に回復されていくものではないか。
ところでロシアに行き、ロシア正教会の中で教えを受けながら、私は必ずしもロシア人になることを強要されなかった。ロシアで生活するにはロシア人になることだ、ロシア人魂を獲得することがロシアに溶け込む一番の早道だと意気込んでいたのだが、それは必要なかった。指導者たちはわたしの中にある欲望(憎しみ、ねたみ、恨みなど)は否定したが、日本人の民族性を否定したわけではなかった。
正教会では各民族に神から与えられた、独自の役割と性質を大切にする。わたしたち一人一人が創世以来二人とないユニークな存在であり、個々人の霊(たましい)の中にそのユニークな性質が生まれた時から備わっているため、人の真似をしてそれをゆがめたり、崩したりするのは真の救いではないからだ。逆に、ロシア語でリーチナスチともいうこの個人の個性、人格、ユニークさを回復することに正教会の救いがある、とも教えられた。むしろ欲望や常識でゆがめられたり、暗まされたりした、リーチナスチ、神の像と肖を回復することで、本来の霊(たましい)の中に秘められた真の人間性、もしくは私達日本人の人間性というものが現れてくるのではないだろうか。ここでわたしは命をかけて神の像と肖を回復した聖セルギイの霊性がロシア正教会の霊性の一つの模範になった、ということを思い出した。
日本人の霊性と言っても究極的には霊性の源は唯一の神であり、正教性も、善行が全ての民族にとって同様であるように(それは神の戒めである愛に象徴される)時代、場所、民俗を問わず普遍的なものであるが、正教の土着化の中で各民俗らしい正教が生まれてくることも事実である。それは民族性に大きな影響を及ぼす気候、風土といったものから形成される民族の文化に象徴される。しかしそれとは別にまさに回復された魂にある霊と神聖神の交流の中からどの民族にとっても真の人間性が生まれてくるものではないか、と思う。そのなかで、段々と、外国の模倣、外国のキリスト教「文化」の受容だけでおわらない、日本の霊性が生まれてくるだろう。
救いにいたる霊的生活はもっとも難しい学問中の学問、「天の学問」で、指導者の導きなしには歩むのが難しいものだ。ロシア正教会も長い間ギリシャ人から救いの道を学んだ結果、独自のロシアの正教性を生みだした。我々もまだまだ外国の修道の伝統、経験を積んだ修道士から学ぶことが多いだろう。
わたしは一連の旅で、修道士の謙遜から愛にいたるまでの修行の道と霊(たましい)の回復について聞き、日本人の霊性というテーマにも思いをはせるようになった。
世俗の中で暮らしていても課題は同じである。神の戒めを実行し、欲望を清め、謙遜や温柔や愛の徳を身につけて、救いに達成し、自分の神の像と肖を回復すること。この修道士が命をかけて辿る道からすこしでも教訓をもらい、救いに到りたい。そして、今は欲望に暗まされて見えない、神から創られた本当の自分は誰なのかを知りたいと思う。
あなたなしでは [歌]
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あなたなしでは 私はいなかった
あなたなしでは 私は無に等しい
私の存在は、私の存在は
完全にあなたによっている
あなたは知っている、私の弱さを
あなたは知っている、私の罪を
でもあなたは私の創造主
私を完全に受け入れて下さる
あなたの意志で私は創られた
あなたの意志で私は死んでいく
あなたに与えられた人生の畑を
あなたと共に耕していく
光栄は神に帰す、光栄は神に帰す、
光栄は神に帰す
光栄は神に帰す、光栄は神に帰す、
光栄は神に帰す
命の黄昏の後に
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命のたそがれの後に
死の闇が訪れる
でもそれは終わりではなく
暮れざる命への移行
行こう、行こう天国へ行こう
行こう、行こう愛を携えて
行こう、行こう天国へ行こう
主が我らを呼んでいるところへ
ロシアの修道士たちへ
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夜のとばりが大地を覆うとき
空には輝く星が登る
この星を遠きロシアで
あなたたちも見ることでしょう
*同じ星に神より生を受け
同じ時を生きる我等
神より与えられた尊き
同時代人たる兄弟よ
今も変わらぬ神の愛を
心に得ようとした尊師よ
天使と競うあなたの人生は
深く私の心を打つ
*
あなたの親切な指導を受けて
わが歩みは神へと向けられる
今は遠き地に住んでいるけれど
神の元でもお会いしたい
*
*
イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)
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イイスス・ハリストス
私を創った
イイスス・ハリストス
唯一なる神よ
イイスス・ハリストス
私を助けて
イイスス・ハリストス
いかなる時も
イイスス・ハリストス
赦してください
イイスス・ハリストス
犯した罪を
イイスス・ハリストス
与えてください
イイスス・ハリストス
生き抜く力を
イイスス・ハリストス
導いてください
イイスス・ハリストス
天国に至るまで
修道とは何か(2)
掌院ラファイル
(つづき)聖師父たちはその著作の中で、神性の光は霊(たましい)に存在の充満、永遠の安息、完全な可視の世界で類似物がない神秘的な美として啓示されると暗に我々に示している。神は霊(たましい)に新しい、未知の、奥密なる命として啓示され、その時霊(たましい)はこの命の外の存在は死であると感じる。神は霊(たましい)に不可知な光、内的な照らしとして現れ、その時霊(たましい)はこの光の外では以前は疑いさえしなかった、光を通さない、重い闇に満たされていると感じる。
神は霊(たましい)にある種の理解不可能な安息として啓示される。そしてその時霊(たましい)はこの安息の外では絶えず、あたかも慣れてしまったかのような苦しい不安の中にいると自覚する。神は霊(たましい)に深い貯水池の透明な水に似た終わりなき喜びとして啓示される。そしてこの喜びの中では世は霊(たましい)にとって荒野の灼熱した砂のように残酷で、胆汁のように苦いものに感じられる。神は霊(たましい)に言い尽くされない愛として啓示される。そしてこの愛の中で霊(たましい)は神を知らない世への哀れみから泣き、自分自身についても泣く。何故なら霊(たましい)は常に神と共にはいられないからであり、悪魔と世に欺かれながら、酩酊したように、受けた約束を忘れるからである。
修道、これは絶え間ない神との体合への探求である。愛は離別を耐えられない。故に霊(たましい)は神との交わりを、戒めを行ったことに対する報酬として来世でだけでなく、ここ、地上においても自分の懇願への返答として模索する。故に修道生活の中心となるのは祈りである。修道士は、燃える建物から走り去るように、世から遠ざかる。修道士は世を炎に包まれたものとして見る。この罪と欲望の黒い炎が、世の像を通して彼の心に浸透し、彼の安息を煙と黒い煤で焦がすのである。修道士は彼の霊(たましい)の中に住んでいる罪だけでなく、その中にある隠された地獄も見る。故に修道生活は霊(たましい)によって押さえつけられた神(しん)の目ざめのための戦いである。これは卑劣な欲望だけでなく、世が霊性と受け止めている幻想で生まれた富と共に霊(たましい)を抑制するのである。
もし神(しん)が祈りと悔い改めによって覚醒させられず、恩寵の助けによって霊(たましい)に打ち勝たないのならば、人間は一連の霊(たましい)の悩みや想像から抜け出せない。そして霊(たましい)の感情的な熱を霊的な状態と受け止めてしまう。故に修道生活は霊(たましい)の中に起こる絵や像や目まぐるしい思考と結びついた有頂天やインスピレーションとは無縁のものでなければならない。心の祈りは見えないもので、明確な形がなく、霊的な世界は人にヴィジュアルな絵の中にも、繊細な思考の光の中にも啓示されない―すべてこれは外面的なことである。霊的な世界は言葉もなく霊(たましい)の静寂、祈りにおける建物の中に己を現す。内的なイイススの祈り―これは回転するヘルビムの炎の剣で、エデムの門、つまり人間の心を守るものである。
真実の生活―これは神の恩寵である。絶えず流れていく一過性の地上の生活は、命と死の不可解な統合であり、これは半命である。永遠に対して、これは霊(たましい)の未成熟の状態であり、これは実存ではなく、滞在であり、死の猶予である。故に最終目的としての地上の生活は、ただ押しつけられた勤め、我々が生きている過程、不可解な事実としてのみ受け止められるかもしれない。一方もし地上の生活で、永遠で、ひとが意味と価値を求めるのならば、それは目も当てられぬ悲喜劇のようなものとなるかもしれない。
もしも人生が人に、決して与えなかった、そして与えないであろうもの、つまり幸福を与えることができたとしても、やはり地上の生活の悲劇性は消えることはないだろうし、もしかするとより一層暗くなるかもしれない。祝宴の最中に突然人が捕らえられ、絞首台に引き出される時恐ろしくないだろうか。故に修道の禁欲の課題の一つは死の記憶である。世俗の人々は普通死を思わないようにしている。彼らは自分の霊(たましい)から死の記憶を追い出し、あたかも死が存在しないかのように自覚から締め出している。彼等は周囲に死の絵を見るが、内的には死は彼らを通り過ぎるだろうと自分に嘯いている。故に死は常に彼らにとって不意の客となるのである。
恩寵―これはあらゆる命と存在の源であり、これは成聖と未来の変容力、つまり世界創造の終わりなき目的である。一方恩寵の減少は世界が死ぬことであり、世界が死に瀕していることの見える形での兆しとしての黙示録的惨事である。まさにここに特別な何者とも比べ物にならない世への勤めとしての修道の他の局面が開示される。修道士は心の清め、祈り、禁欲を通して自分の霊(たましい)に神性の光を獲得しようと努めるが、この光は同時に宇宙の核心である。故に修道士が自分の心に獲得した光は全世界を変容するのである。この光は世界に命を吹き込み、この光が死にゆく人類を蘇生するとも言うことさえできる。この光は罪の破壊的な遠心的な力に反抗する。故にもし世界のための祈祷者がいなければ、もし霊的な光を持つ者がいなければ、もしかしたら世界はすでにすたれてしまったかもしれない。
(つづき)聖師父たちはその著作の中で、神性の光は霊(たましい)に存在の充満、永遠の安息、完全な可視の世界で類似物がない神秘的な美として啓示されると暗に我々に示している。神は霊(たましい)に新しい、未知の、奥密なる命として啓示され、その時霊(たましい)はこの命の外の存在は死であると感じる。神は霊(たましい)に不可知な光、内的な照らしとして現れ、その時霊(たましい)はこの光の外では以前は疑いさえしなかった、光を通さない、重い闇に満たされていると感じる。
神は霊(たましい)にある種の理解不可能な安息として啓示される。そしてその時霊(たましい)はこの安息の外では絶えず、あたかも慣れてしまったかのような苦しい不安の中にいると自覚する。神は霊(たましい)に深い貯水池の透明な水に似た終わりなき喜びとして啓示される。そしてこの喜びの中では世は霊(たましい)にとって荒野の灼熱した砂のように残酷で、胆汁のように苦いものに感じられる。神は霊(たましい)に言い尽くされない愛として啓示される。そしてこの愛の中で霊(たましい)は神を知らない世への哀れみから泣き、自分自身についても泣く。何故なら霊(たましい)は常に神と共にはいられないからであり、悪魔と世に欺かれながら、酩酊したように、受けた約束を忘れるからである。
修道、これは絶え間ない神との体合への探求である。愛は離別を耐えられない。故に霊(たましい)は神との交わりを、戒めを行ったことに対する報酬として来世でだけでなく、ここ、地上においても自分の懇願への返答として模索する。故に修道生活の中心となるのは祈りである。修道士は、燃える建物から走り去るように、世から遠ざかる。修道士は世を炎に包まれたものとして見る。この罪と欲望の黒い炎が、世の像を通して彼の心に浸透し、彼の安息を煙と黒い煤で焦がすのである。修道士は彼の霊(たましい)の中に住んでいる罪だけでなく、その中にある隠された地獄も見る。故に修道生活は霊(たましい)によって押さえつけられた神(しん)の目ざめのための戦いである。これは卑劣な欲望だけでなく、世が霊性と受け止めている幻想で生まれた富と共に霊(たましい)を抑制するのである。
もし神(しん)が祈りと悔い改めによって覚醒させられず、恩寵の助けによって霊(たましい)に打ち勝たないのならば、人間は一連の霊(たましい)の悩みや想像から抜け出せない。そして霊(たましい)の感情的な熱を霊的な状態と受け止めてしまう。故に修道生活は霊(たましい)の中に起こる絵や像や目まぐるしい思考と結びついた有頂天やインスピレーションとは無縁のものでなければならない。心の祈りは見えないもので、明確な形がなく、霊的な世界は人にヴィジュアルな絵の中にも、繊細な思考の光の中にも啓示されない―すべてこれは外面的なことである。霊的な世界は言葉もなく霊(たましい)の静寂、祈りにおける建物の中に己を現す。内的なイイススの祈り―これは回転するヘルビムの炎の剣で、エデムの門、つまり人間の心を守るものである。
真実の生活―これは神の恩寵である。絶えず流れていく一過性の地上の生活は、命と死の不可解な統合であり、これは半命である。永遠に対して、これは霊(たましい)の未成熟の状態であり、これは実存ではなく、滞在であり、死の猶予である。故に最終目的としての地上の生活は、ただ押しつけられた勤め、我々が生きている過程、不可解な事実としてのみ受け止められるかもしれない。一方もし地上の生活で、永遠で、ひとが意味と価値を求めるのならば、それは目も当てられぬ悲喜劇のようなものとなるかもしれない。
もしも人生が人に、決して与えなかった、そして与えないであろうもの、つまり幸福を与えることができたとしても、やはり地上の生活の悲劇性は消えることはないだろうし、もしかするとより一層暗くなるかもしれない。祝宴の最中に突然人が捕らえられ、絞首台に引き出される時恐ろしくないだろうか。故に修道の禁欲の課題の一つは死の記憶である。世俗の人々は普通死を思わないようにしている。彼らは自分の霊(たましい)から死の記憶を追い出し、あたかも死が存在しないかのように自覚から締め出している。彼等は周囲に死の絵を見るが、内的には死は彼らを通り過ぎるだろうと自分に嘯いている。故に死は常に彼らにとって不意の客となるのである。
恩寵―これはあらゆる命と存在の源であり、これは成聖と未来の変容力、つまり世界創造の終わりなき目的である。一方恩寵の減少は世界が死ぬことであり、世界が死に瀕していることの見える形での兆しとしての黙示録的惨事である。まさにここに特別な何者とも比べ物にならない世への勤めとしての修道の他の局面が開示される。修道士は心の清め、祈り、禁欲を通して自分の霊(たましい)に神性の光を獲得しようと努めるが、この光は同時に宇宙の核心である。故に修道士が自分の心に獲得した光は全世界を変容するのである。この光は世界に命を吹き込み、この光が死にゆく人類を蘇生するとも言うことさえできる。この光は罪の破壊的な遠心的な力に反抗する。故にもし世界のための祈祷者がいなければ、もし霊的な光を持つ者がいなければ、もしかしたら世界はすでにすたれてしまったかもしれない。