見えざる戦い [エッセイ]

  ロシアには悪魔払いをする高名な神父さんがいる。悪魔払いと聞くと何か恐ろしい感じがするかもしれないが、正教徒にとって悪魔の存在は天使の存在を信じるがごとく明白である。正教会の教えによれば、神は世界創造の際、人間より先に見えない霊的な世界、天使の世界を創造された。天使は肉体をもっていない霊的な知的な存在で、神からの光を受けて輝いている。しかしこの天使の一部が神に妬みをもやし、神と等しくなろうと傲慢になったところから、堕落し光のころもを奪われてしまった。こうして神から遠ざけられた天使は黒い醜い存在となり、常に悪を心に抱く悪魔となってしまったのである。 見える世界が作られたのはその後であった。天体が造られ、植物、動物が造られ、最後にこの世界の王として世界を納めるべく創造されたのが人間であった。人間は土から作られたが、神の息を吹き込まれた非常に完成された存在であった。そこで悪魔は人間に対して妬みを抱き、人間を神から引き離し、自分と共に堕落させようとした。そして最初に造られた人アダムは悪魔の誘惑に負けて禁断の木の実を食べてしまうのである。その後も悪魔と人間との戦いは続いていて、悪魔は見えずして絶えず人間に妬み、懐疑心、憎しみなどの悪い考えを吹き込んでいる。(だから正教会的には隣人が自分に対して罪を犯したとき、隣人を憎むのではなくて、隣人を悪へとそそのかした悪魔の仕業を憎むように教えている。「罪を憎んで、人を憎まず」である。)一方天使は神からの善い考えを人間に吹き込み、人間を神と善行へと向かわせようとする。ほとんどの人はこの見えざる世界の戦いに気付かずに、悪い考えを自分の固有のものとして信じ込み、人を嫌い、しいては戦争という惨事にまで発展してしまう。これは悪魔の思うつぼである。  正教徒は洗礼の際「悪魔の仕業を断つか」と神父さんに問われ、「断つ」と宣言し、悪魔と縁を切ることを誓う。しかしそののちも悪魔は絶えず悪い考えをもって誘惑し続けるので、いつのまにかその考えに同意し、言葉と行動で罪を犯してしまうのが人間の弱いところである。そこで悪魔のそそのかしに負けて罪を犯したことを正直に認め、赦しのために正教徒は痛悔機密(懺悔)を受けるのである。正教徒にとって大切なことは、まず最初に心の中で悪魔からの悪い考えを拒むことである。その際に用いられるのが祈りであり、この戦いの際に「主、憐れめよ」と神の助けを求める。この一瞬の戦いに勝つこと、これが一生の修行であり、この悪い考えから守られ、心を清くたもてるようにと祈りも増やすのである。  ギリシャの有名なアトス山の故パイーシー長老は次のような話を残している。 「生活、その中には家庭生活も含まれますが、人々を概して二つのカテゴリーに分けることができます。一つのカテゴリーの人々はハエに似ています。ハエは次のような特性を持っています。いつも汚いところにとまっていて、よい香りのする花を避けて飛びます。ハエに似ている人々のカテゴリーとは、悪いことばかりを考え、探すことになれ、決して善を知らず、善を探そうとしない人々のことです。もう一方のカテゴリーは蜂に似ています。蜂の特性とは美しく甘いものを見つけ、美しく甘いものの上に止まり、汚いものを避けることです。このような人々は良い考えを持っていて、よいものを見、よいことだけを思うのです。私は他人を訴えることになれた人々全てに、その中には夫婦もいますが、彼等がどちらのカテゴリーに属したいか、と問います。」  絶えざる悔い改めをし、心を清く保つことになれた人の心には愛が宿り、世界と人々を愛すべきものとして見る。しかし残念ながらハエのカテゴリーに属しがちな人は常に悪に目を向け、虜になってしまう。このように悪魔の悪い考えに呪縛されてしまった人々がいる。そしてそれをいやすのが悪魔払いができる神父さんである。  この仕事は誰にでもできる仕事ではなく、非常に徳を積み、善と愛に充ち溢れ、神から悪魔払いの賜物を授かった人にしかできない。  セルギイ修道院のG神父さんも毎日この仕事に従事していて、ロシア各地からそして外国からも自分が悪魔に憑かれたと思う人々が癒しのためにやってくる。  G神父さんと知り合いになったので、わたしもラドネジの聖堂で祈ってもらった。実はこれはホラー映画ででてくるような怖いものではなく、愛に満ちたものである。聖堂にいた他の神父さんたちも、わたしも悪魔から自由になりたいと皆G神父さんの御祈りにあずかりだした。謙遜な人は自分も悪魔に負けやすいと素直に認めているのである。そしてそのあと、G神父さんがいつも悪魔払いの仕事をしているセルギイ修道院の聖堂に案内して下さった。  あふれんばかりの人が聖堂につめかけ、押し合うほどだ。G神父さんは説教を交えながら祈りを唱え、主に人々に犯した罪を思い出させて、悔い改めの心を作り出している。そして聖なる水(聖水)をかけたり、金の十字架を人々にあてがって悪魔から守り、神の祝福を乞うている。私は外国人ということで、特別に一番前でお祈りに与らせてもらった。G神父さんがわたしの前までくると、5分間ぐらい熱心にわたしの背中の腰のあたりを十字架でさすった。わたしは感動してしまった。実はわたしは赤ん坊の時に二階から一階に転落し背骨を痛めて大変苦しんだことがあるのだ。もちろんG神父さんにはそのことを話したことはない。しかしこの方も神からの慧眼の賜物で私の過去と病がわかってしまわれたのだ。そしてその時感じたG神父さんの心がとても温かく穏やかで愛にみちていた。このような人だから悪魔が遠ざかるのかと改めて自分の卑小さがわかった。  その後もこの見えざる戦いは続いている。まずは人を裁くことを悔い改め、妬むことを悔い改め、そして最近少し心に穏やかな喜びを感じられるようになってきた。しかしこの戦いに勝利すると心に神の愛が宿り、夜となく、昼となく心は燃えるという。セルギイ修道院で出会った神父様たちの深い愛を思うとき、そのことを思い出す。私はまだまだ修行が足りない。まだまだ悔い改めの人生である。
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