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全てのことにおいて自分を小さくしなさい。 [パイーシー長老]

「長老、私が罪を犯す時、他の人々が私にそれを警戒させることもできたかもしれないと見てとると、彼等にクレームをつけてしまいます。」 「個人的な要求を改めるという問題では自分自身に対してだけクレームをつけなければなりません。あなたはただ要求だけがある小さな子供のようにふるまっているでしょう。」 「いったいいつわたしは成人するのでしょう。いつわたしには義務もあるのだということが分かるのでしょう。」 「自分が小さく成る時です。つまり謙遜と愛を育てる時です。」 「師父イサアクは書いています。『全ての人々の前で全てのことにおいて自分を小さくしなさい』と。どのようにこれに到達することができるのでしょう。」 「謙遜な心持によってです。家庭や修道院で霊的完成における競争心があり、一人が他の人の前で遜る時、一人一人がこのことから利益を受けるのです。痛悔が公のものだった古代教会で公の痛悔から全ての人が利益をうけたのと同様に。遜る者は神から恩寵を受け、その後、他の人々を助けます。謙遜なる心持は決して他の人を傷つけません。ですから謙遜な人には常に愛があるのです。」 「全ての姉妹よりも自分が劣っていると感じることを助けるものとは何ですか。」 「全ての姉妹よりも自分が劣っていると感じるためには、神があなたにどれほど多くの賜物を与えたかを考えなさい。あなたはそれを二倍に増やさなかった。自分に言いなさい。『わたしはただターランド(ギリシャ教会で鐘の代わりに使われる木の板)を打つことだけ学んで、自分の賜物は今のところ倍増することができませんでした』と。  人が自分を全ての人よりも劣る者とみなす時、最も低い所で天に上がるのです。私たちは何をしているでしょうか。自分を他人と比べて自分は彼等より上だという結論を出すのです。私たちは言います。『私はこの人やあの人よりすぐれている。私は彼のようではない』と。他の人が私たちよりも劣るという考えが私たちの中に吹きこまれるやいなや、私たちは神の助けに対して自分を閉ざしてしまうのです。」 「長老、私が他人の善行を認める時、ここに謙遜はありますか。」 「もちろんです。もしあなたが善行のある人を尊敬して愛するのなら、あなたには謙遜があり、本当にあなたは善行を愛しているのです。霊的な進歩の印はさらに次のことにあります。あなたの内にある何か良いことを重要だと思わないで、他人の中にある最も小さな善をあなたの善よりはるかに高いものだとみなすことです。つまり他人の内にある善を常に評価することです。その時あなたに豊かな神の憐れみが下ります。ですから他人が自分より優れていると思う人は、より優れているのです。何故なら彼には神の恩寵があるからです。  全ての人に欠点があり、善行もあります。それは彼等が自分の両親から受け継いだり、努力によって獲得したりしたものです。有る人は10パーセント、有る人は30パーセント、他の人には60パーセント、また他の人には90パーセントという具合です。つまり各人から何か良いことを学び、利益を得、他人を助けることができるのです。一方ここに正教の精神性があります。私は小さい子供からも利益を受けます。ただ彼らがおごり高ぶって自分を害さないように、それを表現しませんが。」

神に謙遜を求める時はいやしめられることを覚悟しなければならない。 [パイーシー長老]

「長老、実際的な謙遜を得るためには何が助けになるでしょう。」 「どのように謙遜を得るというのですか。ほんの小さな非難も耐え忍んでいないじゃないですか。親愛なるものよ、お分かりでしょう。謙遜になる機会が与えられている時は、遜りなさい。  あなたの薬は地のように単純に謙遜にふるまうことです。つまり、もし自分の欲望から解放されたいのなら、雨も雹もごみも痰も受け入れるのです。他人からうけるいやしめはもし、人がそれを受け入れるのなら、早く自分の古い「我」から解放されるのを助けます。」 「長老、私には多くの謙遜が必要です。」 「行って買ってきなさい。もしあなたがこのことを望みさえすれば、謙遜を売っている、それどころかただであげる人たちがたくさんいます。」 「長老、それは誰ですか。」 「それは良い霊的な心持を持っておらず、私たちに対して粗野に対し、その行動で私たちをいやしめる人々のことです。謙遜は商品のように食料品店で買うことはできません。私たちが『神よ、私に謙遜を与えて下さい』と言う時、神がスコップをとって、各人に『あなたに謙遜を一キロ、半キロ』とふんだんに分け与えるということを意味しているのではありません。神は粗野な人を登場させ、彼らが私たちにたいして厳しく接するようにしたり、他人から恩寵を奪って、この人が私たちを悲しませたりするようにしむけるのです。これは私たちにとって試練となります。もし謙遜になりたいのなら、努力しなければならないのです。しかし私たちは、これは神が私たちの利益のために兄弟をわたしたちにたいして悪くなるように取り図られたとは思わないのです。神に謙遜を願いますが、神が謙遜のために予め私たちに用意された適当な機会を利用せずに、困惑して憤るのです。良く言うと、私たちを謙遜にさせる人に対して感謝をしなければなりません。何故なら彼は私たちの大変な恩師だからです。祈りのうちに謙遜を神に求めながら、神が謙遜のために彼に送られた人を受け入れない人は、何を求めているか分からないのです。  わたしがストミオンの修道院にいた時、コニツャに一人の聖職者が住んでいました。彼は私がまだ一般信徒だった時から大変私を愛してくれました。ある日曜日に私が聖体礼儀にコニツャに行ったときのことです。教会には多くの民衆がいました。私は常のように、至聖所に行き、入る時心の中で、「我が神よ、全てこれ等の人々を天国へ入れ給え。一方私には、もしお望みなら天国の小さい一角でいいから与えて下さい。」と言いました。領聖の時が近づくと、いつもならわたしを至聖所の中で領聖させる聖職者が私の方を向いて大声で言いました。「至聖所から出て、最後の教衆たちと共に領聖しなさい。おまえは相応しくないからだ。」私は一言も言わずに至聖所から出て聖歌隊席に立ち、領聖予備規定を読みました。最後に領聖に就くと私は心の中で言いました。「神はこの聖職者を照らし、わたしが実際に有るべき姿を私に示して下さった。主イイスス・ハリストスよ、家畜なる我を憐れみ給え」領聖するや否や、私は内的に偉大なる甘美さを感じました。神聖なる聖体礼儀が終わった時、聖職者が砕けた心で私の方に近付いてきて言いました。「私を赦してくれ。どうしてこういうことになったのだか分からないんだ。わたしはいつだってあなたの前に自分の子供やマートゥシュカ、自分でさえもおかないのに。どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。」聖職者は私に向かって地面に服拝し、赦しを請いわたしの手に接吻しようとしました。わたしは言いました。「神父様、心配なさらないでください。悪いのはあなたではなく、私です。神は私を試みるために貴方を利用したのです。」聖職者は私が彼に行ったことが分からず、思うに私は彼をそれほど確信させることができませんでした。起こったことの原因は私の祈りだったのです。  ですから貴方達もだれかの姉妹が我を忘れてあなたにぶっきらぼうに話したのを見たのなら、多くの場合この原因は祈りだとういうことを知りなさい。あなたが神に謙遜を求めたので、神はしばらくの間姉妹から恩寵を取り、あなたを卑しめ、がっかりさせたのです。このようにあなたには謙遜と愛の試験に受かる機会が用意されているのです。もし遜るなら利益を得るでしょう。姉妹に関して言えば、彼女は二倍の恩寵を得るでしょう。第一にあなたを試みるために一時的に恩寵が取られたこと。第二に自分の罪を見て彼女は遜り、神に赦しを求めることです。ですからあなたも謙遜を耕しなさい。彼女は良くなりますよ。

謙遜な者に神の霊が宿る [パイーシー長老]

「神の恩寵が人を覆うためには、どのような善行を持つ必要があるか話してください。」 「謙遜があればそれだけで十分です。わたしはしばしば次のように質問されます。『神の恩寵を得るためにはどのくらいの時間が必要ですか』と。有る人々は一生あたかも霊的に生きて苦行しているかのようで、しかしその際に自分をひとかどの人物かのように思います。このような人は神の恩寵を得ることはできません。他の人々は短い時間で恩寵を得ます。何故なら遜るからです。  もし人が遜るならば、恩寵は一瞬のうちに彼を覆い、彼を天使にするでしょう。そして彼は天国に入ります。しかしもしおごり高ぶるならば一瞬のうちに小悪魔となり、地獄にいることになります。人はもし望むなら羊になることもでき、もし望むならヤギになることもできます。かわいそうなヤギたちは羊になりたくてもなることはできません。しかし人に神はヤギから羊になる能力を与えました。もし人がそれを望むなら。  神の恩寵はただ謙遜で温柔な人にだけ下ります。そのような人には神の霊が宿ります。預言者イサイヤが言ったことを覚えているでしょう。「わたしが顧みるのはただ温柔な沈黙を愛するひとだけである」と(イザヤ書66章2節)  神が私たちに要求しているのは、我々が神との親戚関係に入るためのただ少しばかりの謙遜です。そしてそのあと神の全ての豊かな賜物は次から次へと我々に注がれることになるのです。なぜなら神はあたかも謙遜な人に大きな恩寵を与えなければならないかのようなのです。人が自分自身でそれを求めなくても、神は賜物として恩寵をその人に与えるのです。霊的な法則とはこのようなものです。はたして聖書にこのように書かれていないでしょうか。「神は傲慢なものに敵対し、謙遜な者に恵みを与える(ヤコブ4章6節)」このように神はお決めになったのです。「謙遜な者」とは「恩寵を有する者」です。つまり大変謙遜な者は大きな恩寵を神よりいただくのです。何故なら謙遜の者はスポンジのように自分の内に神聖なる恩寵を吸い込むからです。常に謙遜の性質をもっていて、他人からの打撃を受ける人は、自分を凸凹な状態からきよめ、霊的な美しさにおいて天使にも似たものとなり、天国の狭き門を自由に通り抜けるのです。だれもこの世的に上がることによっては天国に入れません。霊的に降りる(遜る)ことによって天国に入るのです。  謙遜は天の門を開き、人に神の恩寵がやってきます。一方で傲慢は天の門を閉ざしてしまうのです。チーホン長老は言いました。「一人の謙遜な人が、多くの人々が全体でもっているよりも多くの恩寵を持っていました。毎朝神は片方の手で世界を祝福しますが、謙遜な人を見ると両方の手で祝福するのです。謙遜をより多く持っている人は、全ての人よりも偉大なのです。」  すべては謙遜な心持にかかっています。人に謙遜な心持があるとき、その人にとって自然的に地は天と一体になります。謙遜な人々の中には鍵が見出されます。その鍵を回すと愛という霊的なエレベーターにのって第三の天にまで上昇するのです。何故これほどまでに神は私たちから謙遜を要求するのでしょうか。何度も言いますがもし人に謙遜がなければ、彼は天国の狭き門を通り抜けることができず、この世でも平安を得ることができません。ハリストス(キリスト)は言いました。「私は柔和で心の謙遜な者だから私に学びなさい。そうすればあなたの魂に平安を得るでしょう。(マトフェイ11章29節)」

謙遜な者には全ての善行がある [パイーシー長老]

「長老、お別れするに当たってお言葉を下さい。」 「何をあなたに言おうか。もう沢山話したでしょう。」 「あなたが帰ってこられるまで私たちが注意できるように何か話してください。」 「そんなにせがむなら話しましょう。一つの善行があります。それは謙遜です。あなたはこのことが分からないのでもう一つ愛を加えましょう。しかし謙遜が有る人に、はたして愛がないと思いますか。」 「師父イサアクが言っています。全ての食物に塩が必要なように、全ての善行に謙遜が必要だ、と。」 「つまり謙遜がなければ、善行は食べられるものではない、ということです。聖イサアクは善行を行う際にどれほどの謙遜が必要かを示そうとしています。」  「長老、他の個所で師父イサアクは、謙遜は人が全ての善行を手に入れた時にやってくると言っています。」  「もしかしたら、あなたは読み違いをしたのではないですか。もし人に謙遜がなければ彼はどのような善行にも近付くことはできません。」  「つまり謙遜を有した人は同時に全ての善行も有しているのですか。」  「もちろんです。謙遜な者は霊的な芳香のあらゆるよい香りを放っています。心の単純さ、温柔さ、際限のない愛、善良さ、悪意のなさ、犠牲、従順などです。彼には神(しん)の貧しさがあります(「心の貧しき者は幸いなり(マタイ5章3節)」)故に彼は全ての霊的な富を所有しているのです。もし彼が敬虔で沈黙を愛しているのなら、偉大な謙遜の持ち主だった至善なる生神女、処女マリアの類に属しているというということです。籍身した神をご自分のうちに保ちながら、彼女は答えました。「私は主のはしためです。おことばどおりこの身になりますように。(ルカ1章38節)」と。「私は神・子の母になります」とは言いませんでした。彼女はハリストス(キリスト)が30歳になって口を開くまで黙しつづけたのです。  生神女は婢でありながら同時に神の嫁でした。処女でありながら母でした。神の被造物でありながら、造物主の母でした。説明することのできないこの偉大な奥義はただ心で感じ取ることしかできません。」  「あなたは生神女のどのイコンが一番お好きですか。」  「わたしは生神女のすべてのイコンが気に入っています。どこかに彼女の名が書いてあるのを見ただけでも、何度も敬虔に接吻します。そして心は喜びで震えあがります。  深く熟考すれば恐ろしいことです。小さな少女が『我が霊(たましい)は主を崇め、、、、蓋しその婢の卑しきをかえりみたまえり』と言ったのです。数少ない言葉の中にこのような意味が含まれているのです。この言葉の意味を深く考えるなら、大きな利益を得ることができます。短いですが強いのです。もしこの言葉を究めるなら謙遜を愛するでしょう。そして謙遜になれば、あなたの中に神が到来するのをみるでしょう。この神はあなたの心をヴィフレエムの飼葉おけと変えるのです。

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