謙遜な者には全ての善行がある [パイーシー長老]

「長老、お別れするに当たってお言葉を下さい。」 「何をあなたに言おうか。もう沢山話したでしょう。」 「あなたが帰ってこられるまで私たちが注意できるように何か話してください。」 「そんなにせがむなら話しましょう。一つの善行があります。それは謙遜です。あなたはこのことが分からないのでもう一つ愛を加えましょう。しかし謙遜が有る人に、はたして愛がないと思いますか。」 「師父イサアクが言っています。全ての食物に塩が必要なように、全ての善行に謙遜が必要だ、と。」 「つまり謙遜がなければ、善行は食べられるものではない、ということです。聖イサアクは善行を行う際にどれほどの謙遜が必要かを示そうとしています。」  「長老、他の個所で師父イサアクは、謙遜は人が全ての善行を手に入れた時にやってくると言っています。」  「もしかしたら、あなたは読み違いをしたのではないですか。もし人に謙遜がなければ彼はどのような善行にも近付くことはできません。」  「つまり謙遜を有した人は同時に全ての善行も有しているのですか。」  「もちろんです。謙遜な者は霊的な芳香のあらゆるよい香りを放っています。心の単純さ、温柔さ、際限のない愛、善良さ、悪意のなさ、犠牲、従順などです。彼には神(しん)の貧しさがあります(「心の貧しき者は幸いなり(マタイ5章3節)」)故に彼は全ての霊的な富を所有しているのです。もし彼が敬虔で沈黙を愛しているのなら、偉大な謙遜の持ち主だった至善なる生神女、処女マリアの類に属しているというということです。籍身した神をご自分のうちに保ちながら、彼女は答えました。「私は主のはしためです。おことばどおりこの身になりますように。(ルカ1章38節)」と。「私は神・子の母になります」とは言いませんでした。彼女はハリストス(キリスト)が30歳になって口を開くまで黙しつづけたのです。  生神女は婢でありながら同時に神の嫁でした。処女でありながら母でした。神の被造物でありながら、造物主の母でした。説明することのできないこの偉大な奥義はただ心で感じ取ることしかできません。」  「あなたは生神女のどのイコンが一番お好きですか。」  「わたしは生神女のすべてのイコンが気に入っています。どこかに彼女の名が書いてあるのを見ただけでも、何度も敬虔に接吻します。そして心は喜びで震えあがります。  深く熟考すれば恐ろしいことです。小さな少女が『我が霊(たましい)は主を崇め、、、、蓋しその婢の卑しきをかえりみたまえり』と言ったのです。数少ない言葉の中にこのような意味が含まれているのです。この言葉の意味を深く考えるなら、大きな利益を得ることができます。短いですが強いのです。もしこの言葉を究めるなら謙遜を愛するでしょう。そして謙遜になれば、あなたの中に神が到来するのをみるでしょう。この神はあなたの心をヴィフレエムの飼葉おけと変えるのです。

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