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聖大ワシリイ「隣人への愛」 [キリスト教]

ハリストス(キリストのギリシャ語、ロシア語読み)の弟子の特徴はハリストスにおける相互愛である。 「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(イオアン(ヨハネ)13章35節)  人間が穏やかで社交的な存在で、独りぼっちの粗野な存在ではないことを知らない者がいるだろうか。互いに交わりを持ち、互いを必要とし、同胞を愛するということほど私たちの天性に固有のものはない。  主ご自身が私たちの内に予め種を植え付けられ、その種から後に実を私たちに要求している。「新しい戒めを貴方がたに与える、互いに愛し合いなさい(イオアン(ヨハネ)13章34節)。そして私たちの魂をこの戒めへと奮起させようと、主の弟子である証拠として、非凡なる印や奇跡を要求したのではなかった。逆にこう言っている。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)。このようにいたるところでこれらの戒めが結合されるのである。故に隣人へ恩を施すことは主ご自身に恩を施すこととみなされるのである。何故ならこう言われているからである。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせた。」次に付け加えている。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マトフェイ(マタイ)25章35節、40節)  つまり、第一の戒めを実行することにより、第二の戒めに進歩し、第二の戒めを実行することにより再び第一の戒めに戻るのである。主を愛する者は、隣人をも愛するのである。主は言っている。「わたしを愛する者は、わたしの戒めを守る」(イオアン(ヨハネ)14章23節)と。また主は言っている。「わたしの戒めとはこれである。わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」(イオアン(ヨハネ)15章12節)。ここでもまた隣人を愛する者は、神への自分の愛を続けるのである。何故なら神は隣人への彼の憐れみをご自分への憐れみとして受け取るからである。  では互いへのどのような愛を持つべきであろうか。「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさ。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(イオアン(ヨハネ)15章12-13節)と言った主はなんという愛を示し、なんという愛を教えたのであろうか。もし命を捨てることが必要なら、単に人間的義務の実行からではなく、神を喜ばせるという目的をもった実行によって、一人一人の兄弟の利益に全ての面において熱意を示す必要があるのはなおさらである。  誰が主の戒めによって兄弟を愛しているか何からわかるだろうか。誰がそのように兄弟を愛していないか何によって明らかになるだろうか。  愛には二つの顕著な手段がある。愛する者が損害を堪えているのを悲しみ、苦しむこと。同様に愛する者の利益のために喜び労することである。故に罪を犯したがために恐ろしい危険に陥っている者のために泣く者は幸いである。そして良い行いをして、そのために書かれているように比類ならぬ利益を得ている人のために喜ぶ人も幸いである。使徒パウエル(パウロ)がこのことを証して言っている。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ」(第一コリンフ(コリント)12章26節)疑いなくハリストスの愛の掟によるのだが、「一つの部分が尊ばれれば」神を喜ばせる目的であることは顕著だが、「すべての部分が共に喜ぶ」のだ。このような心持を持たない者は兄弟を愛していない明かなる模範である。  ハリストスの愛を理解することは自分自身のものを想像することを各人に許さない。何故なら言われているからである。「愛は自分の利益を求めない」(第一コリンフ(コリント)13章5節)全ての人々と隔離された生活は一つの目的を持っている。各人が自分の要求に仕えてくれることである。これは使徒が実行した「人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めた」(第一コリンフ(コリント)10章33節)愛の掟に反する顕著な模範である。  主の旨に沿って兄弟たちの必要について配慮する心持を持たねばならない。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マトフェイ(マタイ)25章34-36節)そしてそのあとすぐに、(40節)「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」  憐れみ深く寛大でなければならない。そのようでない人は裁かれている。 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」(マトフェイ(マタイ)5章7節) 「もとめる者には、だれにでも与えなさい」(ルカ6章30節) 「無情、無慈悲です。このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら」(ロマ(ローマ)1章31-32節) 「物惜しみをせず、喜んで分け与えるように」(第一ティモフェイ(テモテ)6章18節)  同等の名誉をお互いに示すという点で子供たちに倣わない者は天国に入ることは不可能である。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マトフェイ18章3節)。   全ての人に対してあらゆる憎しみから清まったときは敵をも愛さねばならない。友の為には、それが必要なら、私たちに対して神とハリストス(キリスト)が抱いている愛を抱きつつ、命をも捨てなければならない。 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛しなさい」(マトフェイ(マタイ)5章43-44節)。すぐそのあとで、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(48節)。  (イオアン(ヨハネ)3章16節)「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(15章12-13節)「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」  (ルカ6章35-36節)「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」  (ロマ(ローマ)5章8節)「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」  (エフェソ5章1-2節)「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」

 [キリスト教]

 愛は決して涸れない。愛は多くの人に向けられても、小さくなることはない。このことをエピファニイ長老は語った。「本物の愛は蠟燭の炎に似ている。一本の蠟燭からどれだけ他の蠟燭に火をつけても、最初の炎は完全のまま残る。炎は少しも減らない。そして新しい蝋燭もみな、他の蠟燭と同様の炎を持つのである。」  イオシフ長老は語った。「恩寵が祈る者の霊(たましい)の内に作用する時、神の愛が豊かに灌がれるので、人は感じるものを留めることができない。その後この愛は世に、人に向けられる。祈るものは人をたいそう愛しているので、自身全ての人類の痛み、不幸をわが身に引き受けたいと望む。それはその痛みや不幸から他の人を解放するためである。概して、祈る人は一人一人の悲しみや困窮に同情する。言葉をもたない動物たちにも同情する。故に彼等の苦しみを思う時に、泣く。これは祈りの際に生じる愛の特性だ。故に祈りに練達した者は世界のために祈り続ける。まさしく彼等のおかげで神は世界を存続させているのである。たとえ人々がこのことを自覚せず、義人を評価しないとしても。彼等がいなくなる時、その時世の終わりが来るということを知りなさい。」 何が人間の社会を築き上げるか知っているか。それ愛だ。愛はすべてのことを、もっとも困難なことをも成し遂げる。愛は他人の痛みを担うからだ。
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