神と自分自身を見出すこと

掌院  ラファイル    救われること、これはつまり神と自分自身を見出すことである。一人ひとりの人間は繰り返されることのない現れで、ここに創造主の叡智と美が表現されている。ある人々は救いとは自分の人格、個性を放棄することだ、何か共通の中傷的な理念の中に溶解することだと考えているが、これは私たちが思うところによれば、誤りである。  人は自分からではなく、逆に自分とは違ったものから解放されるべきで、自分の人格と個性を神の賜物として保つことである。もし創造の目的が共通化、統一化であるのなら、主は私たちを一様な幾何学的な形態で創造することもできた。しかし一人ひとりの人間は無二の肉体的構造を持っている。これは各人が全宇宙の中で唯一の魂をもっているという印である。この中にあたかも神の美が、神の似姿が、一様性の中にではなく、ご自分の創造物の多様性の中に我等に開かれているかのようである。  人は己を、彼に干渉し、あらゆる方向から彼を取り巻く他人の中にありながら見出さなければならない。他のもの、これは罪であり、欲望であり、この世である。しかし霊的な道においてはまさしくこの様な誤りがしばしば見られる。つまり他のもの、外からもたらされたものから解放されるために人は罪を折るだけでなく、自分自身をも折ってしまう。神から与えられた無二の自分の人格、つまり自分の魂の顔を滅ぼしてしまうのだ。これは絵画を修復する人が、絵画の煤や汚れを落とすかわりに、絵画を下塗りして、そのカンバスの上に異なった絵を描き、その際さらにへたに描くようなものである。  思うところ、霊的な道には二つの危険性がある。一つは他人の声色で歌う歌手のように、人が己と自分の生活を不具にする場合。これは矯正であり、模倣である。人は本の手本や彼と出会った人々、彼が空想の中で思い描く中傷的で理想的なイメージを模倣することができるが、この際この手本は他人の生活であり、他人の人格、他人の個性の反映であることを忘れている。一方で中傷的なイメージは常に熱い空想と一致しており、具体的な現実である我々とは何の関係もない。このように他人をまねることは密接に空想と結びついており、もし魂が霊の方向ではなく外面的なものに向けられているのなら、魂にとってはプロクルステスの寝台(強盗プロクルステスは捕らえたものを寝台に寝かせ、それより長ければ余った部分を切り落とし、短ければ引き延ばしたという)である。我々は常に自分自身にとどまるのであり、我々は決して他人の人格にはならないのである。しかし自分の「私」を我々はだめにして不具にしてしまうことも可能だ。つまり自分の道を失ってしまうこともできるわけである。我々に必要なのは自分を見出すこと。故に人は他人の経験や例を学びながら自分と彼等を同一化してはならない。逆に自分自身から出て、何が我々のもので、何が他人のものか、何が我々の魂に本来そなわっているもので、何が外から持ち込まれたものかを区別しなければならない。人は課題を解決しなければならないのである。つまり交差する線の中で他人のではなく自分の道を見出すことである。
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小生谷欠まん


例のコスプレイヤーの子、普段は声聞き取れないくらいおとなしいのに
ハルヒのコスさせたら急にキャラ変わってめちゃ攻められまくったよ!!(*゜∀゜)=3ムハァ

「はやく出しなさいよ!!」とか言いながら高速手コキ&タマ舐めの嵐だもんなwww
最後クチまんこで根元から吸い出されてゴックンしてもらったにょーwwwww
コスの力パネェwwwwwwwwww

http://nuo.donune.net/sdxodx0/
by 小生谷欠まん (2009-11-21 06:45) 

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