修道とは何か(1)

 嘗院ラファイル  霊的生活の中には、内的な体験なしには理解するのが難しく、言葉で定義するのが不可能に近い現象がある。実在的に深い現象であればあるほど、それを外面的な言葉による解釈にゆだねるのは難しくなる。  修道は人間の全霊的生活を抱合する。故にこれを理解するのは自ら体験し、それを感じることによってのみ可能だ。何故なら自分の心に愛を経験しないで、愛とは何かを理解するのは不可能だからだ。 故に我々は修道のいくつかの特徴的性質だけを指示しするのみとする。何故なら修道の周囲には誤解、嘘、さまざまな悪用のもつればかりがでてきたからである。世は修道を拒んでいるか、自分の欲望や想像のプリズムを通して修道を見ているかのどちらかである。世は修道をあたかも自分自身の一部として見ようとしている。つまり植物園で見ることができるあるある種の興味深い必見に値するエキゾチックな花として、もしくは慈善的な団体としての性質をもった一定の社会的な勤めを果たすある種の大学として。最善の場合でも修道士の祈りの中に世はさらに自分の心地よさの保証人を見ている。  もし我々が「修道士(モナフ)」という言葉の語源に注意を向けるなら、その基底には通常この言葉が訳されるように、「一人」とか「孤独な」という理解ではなく、ある種のより多きな「唯一の(不可分の、統合的な)」という理解があることが確信できよう。この意味において言えるのは、修道士は傲慢な自己中心主義や汎神論者の唯我論の意味ではなく、世界で自分を唯一と感じている。彼は人格として唯一のものであり、世の枷、世の理解や想像の虜から自由である。修道士は世で自分を唯一のものと自覚しながら、自分の存在の中心かつ意味としての、自分の心の唯一の愛の対象としての「唯一の神」を求める。絶えず神と体合したいという望みは修道士の生活の主要な内容となり、彼の霊(たましい)、神(しん)の全力が不可分に結びついてそれを志向するのである。修道士の生活全てを抱合するこの願望に、この内的な昂揚に、彼は全ての残りの願望と志向を服さしめる。神秘的な意義において統合とは指向性でも、研究でも、接触でさえもない。統合とは他者における生活であり、しかもその際に自分固有の人格を失わないことなのである。これは愛をとおして愛する者を所有することである。  「唯一なる神」との統合―これは命の充満であり、その中で全て他の外面的なものへの魅惑が消され、輝きを失い、消えていき、「唯一なる神」以外の何か他のものへ心を向けることは不貞のように、何か他のものへと執着することは姦淫のように受け止められる。外面的生活を送っている修道士は、この世の概念からしてこの生活が自己犠牲的、かつ英雄的にさえ見えるかもしれないが、霊的な立場からすると自分の最初の愛を裏切った姦淫者となったということだ。修道は人間の霊(たましい)の神性への独占的な愛あり、これは絶え間ない神性の光の探索である。これを聖詠作者ダヴィドは「神の顔(かんばせ)」と呼んでいる(第二十六聖詠八、九節)。
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