永遠の命に向けて―癌と向き合って [エッセイ]

永遠の命に向けて―癌と向き合って

今の世の中、死について口にするのはタブーである。発達した医療もいかに命を延ばすかということに研究が向けられているが、誰にでも必ず一度は訪れる死についての答えはでていない。わたしの周囲でもそうだった。わたしがクリスチャンであり、死後の永遠の命を信じているにもかかわらず、である。周囲がクリスチャンでないこともその要因だ。どのように恐るべき死について語るか。
 昨今、突如として身内に進行性の癌が発見された。彼女は当然、おそらく生まれて初めて迫りくる死の可能性に脅かされることになった。手術をするにもリスクがある。術後も再発、転移の危険性がある。この世の命が永遠に続くものではなく、いつか終わりが来る事を否応なく知らされる機会が訪れたのだ。
 恐らく神が直接的な手段をもって彼女に語りかけたのだろう。過ぎ往くこの世の命に執着せず、永遠の福楽に目をむけなさい、と。何故なら約二千年前にハリストス(正教会の発音でキリストのこと)が来たのは、まさしくこの人類を脅かす死を滅ぼすためだったからだ。最初の人間アダム、とエヴァが創造された時、人間は死とは無縁の存在だった。命の源である神の似姿として創られた人間もまた、「生きる」存在として創造された。
 その人間に死が入り込んだのは、アダムとエヴァが神の誡めを破り、罪を犯したからであった。罪の結果として死が人類に入り込んだ。それは霊(たましい)と体との分離のことである。人間はこの二つが一体となって完全な人間なのであり、霊と体が分離する状態は非常に不自然である。霊が離れて行った体は分解し、土に帰る。一方霊は分解することのない単一な存在でこの世の記憶も意識も持ち続けたまま生き続ける。その哀れな状態を見過ごすことが出来なかった神は、自ら人体を取り、十字架に釘打たれ、人間として十字架上で死に(しかし神としては死ななかった)、地獄に降り、そこに繋がれていた人々を解放し、三日目に復活した。そして彼に続く人類が彼に倣い、皆復活し、永遠の命を得るようにと制定されたのである。これが新約である。(復活というのは、人が新しい霊的な体をまとって再び霊と一体となり、今よりさらに完全な人間となって甦ることを意味する)このことが新約聖書に書いてあるのである。故に今は新約の時代で、我々は死後の命を確信することができるのである。もしイイスス・ハリストスを信じていれば。
 死後も生き続けるのであれば、その運命はいかなるものであるか。それはこの世の生活態度、心の状態できまる。それではどのような生活を送ればいわゆる天国の福楽を得ることができるのかということは、それもまた新約聖書に書かれている。それが福音書の誡めである。この誡めを守る生活を行っていること、これが天国に入るための前提となる。
 この天国での生活のすばらしさについて、ある聖人は次のような内容の事を言っている。「もし、天国に入ることができるのなら、この世のどんな苦しみも耐えることができる。たとえウジ虫の中で暮らしても、天の国の甘美さには変えられない」、と。この天の国の福楽、甘美さが永遠に続くのである。それに比べてこの世の命は暫時である。この世の命とは待望する天の国に入るための準備期間なのである。故にもしこの準備期間を正しく過ごせば、死は恐るべきものではない。何故なら死によって天の福楽に移行するからである。
 彼女にはこの永遠の命について話さねばならないだろう。何故ならまさしく死と向き合うことで、永遠の命に入るためのこの世での生き方が決まってくるからだ。聖人たちは「死を記憶すれば罪を避けられる」と言っている。死の記憶、死と向かい合うことはタブーではない。逆に自分の生き方を変える、スタート地点なのである。

 

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