命のきらめき―癌病棟で [エッセイ]


私はほとんど毎日病院の母を見舞った。母親が寝ている病棟は主に癌患者が収容されている。手術の後母親は日増しに健康を回復していった。つい最近のことである。母親が頭を洗いたいと言った。このことを知って、やはり癌を患い抗がん剤で髪の毛がほとんどないご婦人が母親の洗髪を助けに飛んできた。彼女は効果的に頭を洗う方法を知っているのだという。そして私に丁寧に説明しながら、病院の流しで力をこめて母親の頭を洗いながら言った。「退院祝いにさあ。」私は一瞬飲み込めず、おそるおそる問うた。「もうすぐ退院されるのですか。」「いやわたしはずっとここよ。あなたのお母さんのことよ。」仕事を終えると、疲れたのだろう、自分の床にかえって長いこと休んだ。
 私は命の輝きを見て感動した。このがん患者は命の最後の次期を愛の行いに捧げようとしている。彼女はもう痩せているが、今でも健康な時は美人だったであろう面影が残っている。しかし、彼女の人生は複雑だったという。離婚、不良になった息子、生活費を稼ぐためのバーでの仕事。一方髪を洗ってもらった母親のもとには夫、娘が毎日通ってきている。誰の目にも幸せな主婦と写るだろう。
 しかしそんな主婦を自己犠牲的に助けた彼女はどうやらすでに妬みという欲望を克服したらしく、死が近づくのを待ちながら、人の幸せを喜んでいる。
 わたしたちは体では健康でいながら、霊(たましい)ではどれだけ欲望を抱えて生きているだろう。わたしたちは時として、自分を後まわしにして人の幸せを単純に喜べない。体では健康に生きながら、霊(たましい)は病んでいるのかもしれない。
 聖使徒ペトルは正しく述べている。「体に苦しみを負ったものは罪を犯すことをやめる」と。彼女の中には苦しみを通して愛が輝き始めた。日々、来世への旅立ちに近づきながら命がきらめき始めた。なぜなら愛は光であり、愛のない人生は生きていても死んだものだからだ。天国に携えられるものは愛だけである。肉体は脱ぎ棄て、物質も置き捨てるのだから。
 すべての人の人生を節理的につかさどる神に光栄。彼女はまだハリストス(キリスト)を知らないが、今良心に従って、福音にしたがって生きている。なぜなら聖使徒パワェル(パウロ)が書いているように、異教徒にも戒めの行いが彼らの心に書き記されているからである。
 癌病棟で私は命のきらめきを見た。おそらくもし霊的な目が開かれたら、そこで、点滴の管をつけたパジャマ姿の哀れな肉体の中に、永遠の命に向けて準備をしている多くの魂を発見することだろう。
― その後 -
 病院での母の最後の一日が来た。この日母は初めての抗がん剤治療を行うことになっている。長い間ベッドで点滴をうたなければならない。わたしも仕事が終わり午後から駆け付けた。突然あの愛のご婦人がひょっこり現れた。産婦人科病棟に移っての治療だったが、最後の日というので、はるばる西病棟からお出かけくださった。母としばらく話したあと、私の方を向いて突然問うた。「あんたクリスチャンでしょ。わたしもさあ、小さい時日曜学校(教会で行われる子供たちのための日曜日の勉強会)に通っていたのよ。今思うと若いころ洗礼を受けていればよかったよ。」私は「今からでも遅くないですよ。この病院の近くにも教会があるんですよ。場所はわたしも知っていますから、もしよかったらご連絡ください」といって自分の名刺を渡した。
「病院にはこれといって楽しみがないのよ。だから太陽を見にいくのさ。夏の朝がいいねえ。朝早く目が覚めると、窓辺に近寄って、指の隙間から太陽を見るの。眩しいでしょ。」そういって指を目にかざして見せた。「そうすると隙間からこぼれる光が十字架に輝いて見えるのよ。それが感動的でさあ」神は愛をもって隣人を励ます彼女をどんなに愛していることか。彼女を傍におきたいのだろう。太陽の光の十字架をもって彼女の心を守っている。彼女と会ったのはそれが最後だった。十字架をブレゼントしなかったのが悔やまれてならない。神よ、願わくは洗礼をもって彼女の罪をぬぐい、天国へと導き給え。
  

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