傲慢と謙遜

スヒマ典院イオアン(アレクセーエフ) ある賢明なる長老が傲慢な兄弟を教えさとしたが、兄弟は長老に答えて言った。「お赦し下さい神父様、私は傲慢ではありません。賢明なる長老は彼に反駁して言った。「私は傲慢ではないと言う程、あなたが傲慢なことをはっきりと証明しているものがあるだろうか」と。  実際、盲目的な傲慢は自分自身でも見えない。傲慢は悪魔の発明である。その所産とは次のようなものだ。怒り、中傷、いらだち、おべっか、憎しみ、反駁、不従順、自分の意見にかたく固執すること。他人に服従し難く、指摘も受けられない。一方人の指摘をするのは好きで、言葉を発する時、無意味な発言をする。傲慢は忍耐ができず、愛とは相いれないもので、不遜にも悲しみを与え、権威を志向する。傲慢なものは神を罵る考えに大変悩まされる。聖師父の教えの基盤から簡単に記述した。  では今ここで謙遜についてお伝えしよう。ああ、福たる謙遜よ、汝は神聖なるものだ。何故なら天を傾けて、人類に籍身し、全世界の罪を十字架に釘付けたからだ。私の魂は震えおののく。いかにあたなの偉大さを述べ伝えることができようか。  神智なる聖師父は次のように謙遜について述べている。謙遜から出てくるもの。温柔、愛想、慈愛、憐れみ、静けさ、従順。謙遜な者は悟りがたきことに対して好奇心を持たず、傲慢な者は神の定めの深みさえも究めようとする。謙遜な者は天性の賜物を誇らず、人々の称賛を厭う。ちょうど絹の衣を着ている人が、もし彼にタールをはねかしたら、彼の高価な衣にはねがあがらないように飛び退くように、謙遜なものも人々の称賛を避ける。謙遜の特徴は自分の罪を見、他人には良い性質を見ることだ。傲慢の特徴とは自分の中にただ良いものだけを見て、他人には悪いものを見ることだ。  さらに謙遜の特徴がある。単純さ。隠しごとをしない開放性。そして自然さである。一方謙遜とは何か、そしてそれはどのように魂の中に生まれるかということは、もし人が経験から学ぶのではない限り、誰も言葉で説明することはできない。  師父ゾシマは謙遜について語っていた。そこに学問のある智者が聞いていて、長老に言った。「あなたはどうして自分のことを罪人だと思うのですか。あなたはあなたが聖なる人であることを果たしてしらないのですか。果たして善行があなたにあるということを知らないのですか。何故ならあなたは戒めを行っているのをご自分で見ているではありませんか。それでも自分を罪人だと思うのですか」と。長老は言うべき言葉を見つけられずにただこう云った。「何をあなたに言うべきか分からないが、自分を罪人だと思う」と。智者はどうしてそのようなことがあるのか知りたいと主張した。その時長老は言うべき言葉を見つけられずにその聖なる単純さから言った。「私を困惑させないでください。わたしは本当に自分をそのように思うのです。」  そこに師父ドロフェイがいて、智者に学問にもある主の習慣があって説明が不可能なように、謙遜においても同様なのだと説明した。「師父ゾシマは私を抱きしめて言った。『あなた事を悟った。それは貴方が言った通りである。』智者は満足して我々に同意した。」  多くの事の中からわずかしか書かなかった。より多く、詳しく知りたい人は「フィロカリア」を一読することをお勧めする。
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